Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

便利と豊か

 「技術の進歩は人々を豊かにする」という考え方がある。それは一面において正しく、見方を変えれば誤っている。生産性が不足しているときには、技術の進歩は人々の生活を変えるきっかけとなるだろう。産業革命をはじめ、交通網、通信網、その他さまざまな分野でそれは重要なトピックであった。
 ここで言う生産性は、人間の能力を十分使いこなせているかが最も重要な要素だと私は見ている。よく企業経営においても人を使いこなせていないという話を聞くが、人を使った方が効率的な範囲において技術は社会を豊かにする。

 しかし人の能力がその他(コンピュータやロボット)に劣り始めた時、既に状況は逆転し始めている。もちろん社会全体で考えれば技術は社会を豊かにしているかもしれない。ただ、そのメリットを享受出来る人が徐々に少なくなりつつあるとすればどうだろうか?
 きちんとした調査をしたわけでもないのであくまで思考実験に留まるが、今後の更なる技術発展は必ずしも人々の生活を豊かにするとは限らないのではないかと考えている。いや、単純に技術進歩という言葉でくくっているが、それには大いなる誤解も含まれよう。
 開発されていく技術の中に、人の生活や社会を豊かにするものもあれば、逆に人の存在価値を低下させて貶めるものもあるということだ。そして両者はあたかも同一の存在のように、技術開発であるとか技術革新という同じ文脈の中に存在している。

 社会には二面性があり、消費者は同時に労働者でもある。消費者の立場としては有利な条件が、労働者の立場としては不利となる時に、双方を相対的に見た上で重要性が高いかどうかを判断しなければならない。しかし、消費者という立場に関してはほぼ全ての人が同じ土俵に乗っているが、労働者の場合には労働内容の専門分化があるが故に特定分野のみに被害が集中する。
 だからこそ、ごく一部の被害者と全体の受益者という構造を捉えれば、あたかも社会は利益を得ているように勘違いしてしまう。しかし社会全体が1%の利益を得て、社会の1%の存在が100%の損失を被った場合には、数学的には損得はないことになり、その上で社会保険等により必要とされる社会コストはおそらく上昇してしまう。さて、この状態は社会にとってメリットがあったのであろうか?

 上記のような問いを投げかければメリットはないと答える人が少なくないと思うが、実社会におけるそれはもっと小さなものであって、多くの場合にはその問題を認識するまでもなくなんとなく雰囲気により技術が社会を便利に、豊かにあるいは幸せにしていると勘違いしてしまう。
 そして企業は宣伝するであろう。「私達の技術により、社会はこれだけ便利にあるいは豊かになりました」と。その言葉を私達のほとんどは鵜呑みにしていない。それは企業にとってのメリットであって、社会全体を見渡してのそれではないのである。

 何も技術進歩の全てを否定するつもりはない。ロハスやヴァナキュラーな生活が全てを解決する答えであるとも思わない。私自身は基本的に都会で生活した方が便利だと思うし、現実に高齢者は郊外で生活するよりも都心居住の方が利便性に富むと思う。
 便利であるというのは生活する上では、特に労苦(高齢化しかり、過重労働しかり)を伴う場合には非常に重要なものである。ただ、それは人間の能力をサポートするということであって、その中心には常に人間がいる。便利さという合理性から人間をはじいた方が良くなればなるほど、それは一体誰のための便利さなのかという疑問が湧き上がる。
 例えば、確かにamazon流通革命を引き起こした。その手軽さは私自身使用することで享受している。しかし、人間が主体の社会を継続していく上で本当に必要な存在なのかは確信が持てないでいる。同じような存在は他にもいくらでも見られるであろう。私たちは、社会全体として本当に幸せになっているのであろうか。

 コンピュータの発達は仕事のスピードを大きく向上させた。しかし、それにより楽になったわけでは無い。却って、これまで問われなかったような内容まで事細かに資料を作る必要が生み出され、結果としてより難しい状況に陥っているケースも見られる。
 果たして、私たちの豊かさは便利さによってもたらされるのであろうか。私は技術の革新を否定するつもりはないが、その社会的効果についてはこれまでとは違う指標を導入して価値判断をすべきではないかという気持ちを持っている。