Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人がネックとなる社会

 ITが我々の生活に置いて役立っているかどうかをall or nothingで聞いたならば、私は「当然役立っている」と答える。コンピュータ無しに現在の仕事は意味をなさないし、当たり前の情報伝達や情報収集はITインフラに大きく依存している。だから、基礎部分ではITを含むあらゆる技術に大いに助けられて現在の状況がある。
 しかしながら、全てにおいて効果的と言う存在があるはずもなく、非常に役立っている部分と時にはマイナスに作用している部分があるのは当然であろう。ただ、まずい面もあることは知りながらも、社会としては全体を見通して効果的であると判断するからこそITは広く普及している。
 例えば、自動車があることで一定数の交通事故が発生するが、それ以上にメリットがあると判断するのも同じ構図である。スマホの普及も似たような文脈に存在している。

 かつて提唱されていた「ユビキタス」という言葉は既に実現しつつあり、それ故に言葉が新鮮さを失い使われることもなくなったが、続く概念としhて「アンビエント(http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/research/tokku_080924.htmlhttp://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20090619/1027176/)」が生まれ、今では「IoT(http://tocos-wireless.com/jp/tech/Internet_of_Things.html)」が叫ばれ始めている。
 IoTは「Internet of Things」の略で、日本語で言えば「モノのインターネット」となるが、あらゆるものにセンサを設置し、その状況をモニタリングしながら生活環境を向上させていこうという考えである。単純に便利になるということだけでなく、防災など安全性確保にも大量のセンサが常に情報をネットを介して発信し、それをモニタリングあるいは分析することで利便性を向上させようという狙いがある。

 ユビキタスが提唱されていた時代には、大変大雑把に言えば人とネットの距離を縮めること、すなわちインフラ整備が一面において目標とされたが、その先で対象が人を取り巻く環境全てへと広がり、今つながりをネットとは関係なかった大量のモノにおいても具体化する方法が議論されている。
 この考えを最大限に広げた概念としてIoE(Internet of Everyting:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88)があるが、全てを包含するというのは概念的には成立しても、まだ実現性は少々疑わしい。今は、人がモニタリングをしたいと考えるモノに限定して試みが始められているに過ぎない。

 モニタリングにより得られる大量のデータは、既に有名になった言葉ではあるがビッグデータ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF)と呼ばれ、従来のソフト等では解析不可能な大量のデータを扱うジャンルに該当する。無論、必要なデータのみをチョイスして利用することもIoTには含まれるので全く同じではないが、それでも入手できる生データはセンサの数だけ存在し、基本的にはビッグデータに分類される情報であろう。
 これらの活用は人間社会の生活を豊かで快適にするためであるが、それは効率化と言うITに課せられた当初の目的とは少し異なり始めているかもしれない。作業の効率化=人の作業が楽になることであればよかったのかもしれないが、現実は多くの人が経験しているようにITによる時間短縮は更に高密度の作業の呼び水になっている。

 ITの導入により先行者利益としてのメリットを得られる瞬間のみ高収益・作業低減が図られるが、他者との競争が始まればこうした利益は直ぐに消し飛んでしまう。もちろんIT以外のノウハウがあることで、他者との差別化が図れるのであればもう少し余裕があるかもしれないが、喩えとして適切かどうか自信はないが単純な技術力競争は一種の価格競争に似ている。
 最初に値引きをして多くの顧客を呼び込むことができたとしても、同業他社が追随すれば仁義なき戦いが繰り広げられ、最後は双方とも疲弊してしまうという形が現代社会でも見られる姿と言えよう。もちろん戦いに勝ち残ることで自由に価格誘導できる立場になれば良いのかもしれないが、これまた技術の進歩により容易にその優位性が崩れるのも現代社会の特色であろうか。

 ここで問題としたいのは、ITなどの導入による効率化の真の目的はどこにあるかと言うことである。一つには同業他社との生き残りに勝つという経済競争における優位性を得るため。そしてもう一つが、効率立化により人間が豊かな生活を送れることが思いつく。
 前者は企業としては当然考える問題であるが、後者は消費者が求めるものである。しかし、私たちは効率化により安価により良いものを手に入れられるだけではなく、職場も豊かで創造的になると希望を抱かなかっただろうか。
 もちろん、仕事そのものが楽になるなどという甘いものではないが、無駄なタスクをITにより省略することでより創造的な仕事に時間を割けるというのがそれであろう。さて、現状はどうなのだろう?

 一部のビジネスリーダー的な取り上げ方をされる人については、創造的な仕事をしているイメージが宣伝されているが、全ての仕事が創造的になるかと言えばそうではない。結局のところ創造的な仕事は元々創造的なものであり、そこにITが利用されることにより創造性が増す(これも必ずしもいえるとは思わないが)と言うことに過ぎない。
 だから、単純労働的な作業がIT化により楽になったり変化したりはしない。むしろ、コンピュータに仕事を奪われるという恐怖が見えないところで進行しており、その前兆を給与低下やリストラという形で感じ取っている。

 ITと言う言葉ではなく、すぐ先にはAI(人工知能)がこれまで人間が行ってきた複雑な判断まで担おうとし始めている(http://blogos.com/article/100524/)。そこでは、単純労働のみならずこれまで専門的であると考えられた職業まで機械が奪ってしまうという状況が見えてくる(http://toyokeizai.net/articles/-/51383)。
 「M to M(http://e-words.jp/w/M2M.html)」という概念があるが、これはMachine to Machine の略であり機械同士が人間を介さずに連絡を取り合い、作業の効率化を図るというシステムで既にいろいろな場面で用いられている。そこで考えられているのは、一つには人間の手を煩わせないもあるのだが、その先において見えてくるのは人間の能力がボトルネックになっているという状況だ。

 人を除外した生産システムや流通システムの発展が、本当に人を幸せになるかについては疑問を抱く人も既に数多くいる。ロハス(LOHAShttp://ja.wikipedia.org/wiki/LOHAS)やヴァナキュラー(http://www.architectjiten.net/ag05/ag05_262.html)な生活が人類究極のものと言うつもりはないが、極論に走るのが私が言いたいことではない。
 効率化の末に人が幸せを掴めるのであれば、それは一つの求めるべき命題となるだろうが、一部の人のみが幸せを享受し残りの大多数が取り残されるとすれば、今進んでいる道が本当に良いかと言う疑問を抱いておいた方が良い(直ぐに反対するというものでもない)。

 それでも、IT化など技術の進歩は人間社会総体の幸福度を向上させるために用いられるべきで、一部の利潤を最高化させるために「過度に」用いられてはならない。何も、制度としての社会主義共産主義が良いと言っているのではない。一部分の最適化は社会全体の最適化とは必ずしも相容れないという合成の誤謬(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC)について私たちは常に考えなければならないのである。
 資本主義の良い部分は、頑張った(上手くやった)人が利益を上げられるという目の前の人参効果があることだが、それを放置し続けると社会格差が拡大していく。現在の社会制度は、利益の再配分を既にシステムとして行っているが、問題はその程度がどれくらいが良いかに帰着する。アメリカや中国のように貧富の格差が大きくなりジニ係数を増加させる方が良いのか、あるいは新社会主義を目指した方が良いのかと言う極論ではなく、その間の丁度良い社会を如何に合意の上で目指すべきかと言うことであろう。かつて世界で最も進んだ社会主義と言われた日本は、最適とは言い難いかもしれないがバランスを考えてきた社会ではないかと思う。

 その上で、IT化や機械化は普段目立たないものの一面において社会格差を開くために助力している。こうした負の面にどのような上手い制限(恩恵を社会に広く与える)をかけるかを考えなければならないのではないか。コンピューターやITの発達により、これまでは仕事のスタイルは大きく変わり生活も豊かになったとは思う。ただ、その蜜月が今後も継続すると考える根拠は実のところ幻想以外のどこにもない。
 処理能力の向上により、これまでできなかったことができるようになったのは素晴らしいが、同時にこれまで簡易にできてきたことが複雑になったという面がある。深く複雑に取り組めることは一面でよいことかもしれないが、他方で人の能力に大きな負担を与えてもいる。
 これからも現在以上に人間がボトルネックとなる場面が増加していくだろう。そして、人の能力が処理を妨げるのだとして結果的に人間排除につながっていくとすれば、それは社会の格差を広げる負の面の増大させる。
 だからと言って、メリットも数多く存在するのだから技術を否定すればよいわけでもない。要するに、程度と使い方について今一度社会的な議論を推し進めるべきだろうと思う。