Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

友好と交渉

 日本人は交渉事が苦手だと言われている。ウィンストン・チャーチル(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB)は「第二次大戦回顧録」で次のように述べていると日下公人氏が何度も書いているが、原典ではその言葉は見つからないという話(http://d.hatena.ne.jp/niguruta/20130126/1359208570)もある。友人への手紙にそれが書かれているとの話もあるようで正確にはわからない。とりあえず、日下氏が書いている中身を引用する。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。
笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。
反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数が上がるのに、
それができない。

それでもう一度、無理難題を要求すると、これも呑んでくれる。
すると議会は、いままで以上の要求をしろという。
無理を承知で要求してみると、
今後は笑みを浮かべていた日本人がまったく別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、
あなたは話のわからない人だ。ここに至っては刺し違えるしかない」
と言って突っかかってくる。

英国はマレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを
日本軍に撃沈されシンガポールを失った。日本にこれ程の力があった
なら、もっと早く発言して欲しかった。

 一方で、日本の商社が世界中でお金を稼いでいるのは多くの人が知ってるとおりである。交渉事が苦手ではおそらくそんなことはできない。日本人が交渉事を苦手と言うのは、私からすれば必ずしも正しくないと思っている。ただ、日本国内で大きく進化した約束事(契約に向かう態度等:主に誠実であることなど)は様々な事業において時間を短縮し効率化する上で非常に役に立つシステムである。
 日本人は普段そのシステムを利用しているが故に、海外での面倒な交渉事が一般認識として無駄だとしか思えないという点はあるだろう。もちろん、普段の感覚をそのまま持ちこめば当然面倒な話になる。相手を信用することから入るのと、信用しない事から入るという差が大きいからである。

 既に多くの人が書いていることであろうが、上記の交渉相手を信用するという感覚は日本人独特とは言え無いものの世界的には珍しい。これはゲーム理論における囚人のジレンマで理解することができる。お互いが相手を信じ合えば両者を総じての最大利益を得られるとしても、相手が裏切れば利益を総取りされてしまう。それ故にお互いが相手を信じず利益が最小化される。
 同じようなことが木走日記(http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150929)にもナッシュ均衡の事例として記載されている。お互いが信じ合えない社会もそれはそれで成立するが、社会の効率性と言う意味ではかなり低くなる。対外的にはいざ知らず、国内的には社会の進歩がなかなか捗らない。欧米では、その信頼関係を法と言う別の制度により補うことで社会進歩の加速を生み出した。

 さて、お互いが信頼会える関係にある時には「友好」という言葉は非常に好ましいものである。ここには条件があり、仮に打算があったとしても相手が裏切らない(あるいは裏切られることも許容する)という両者の認識があってこそ成立するものだと思う。
 ここで、相手の裏切りを許容できるのは一方の力が非常に弱く、裏切りによるダメージが小さいことが考えられる。家族で喩えれば子供の嘘は多少許容できるが、大人のそれは看過できないといった感じであろう。
 他方、ビジネスの現場では相手の裏切りの可能性をなるべく低くすることが求められる。それでも詐欺に引っかかるケースは後を絶たないが、多くの場合詐欺師はかゆいところに手の届くような友好を演出する。もちろんそれは、詐欺師にとっての利益を最大化するためのものでしかない。

 さて、外交においても「友好」と「交渉」という言葉は良く用いられる。感情的には「友好」で実務としては「交渉」ということになるのだが、一部では「友好」を前面に押し立てた「交渉」を是とする人たちがいるようだ。同じ文化の下では成立する手法であるが、文化が異なる場合にはその方法は混乱を招きかねない。
 真偽はともかくチャーチルが言っているとされる言葉は、結局のところ「友好」は仮面に過ぎないのだから、そのイメージに過度に依存することなくネゴシエーションを行うのが普通であると聞こえる。おそらく、「友好」に大きな期待を置くものほどそこに示されるような過敏な反応を見せるのだろう。
 「友好」、「話し合い」、様々な美辞麗句が世の中には溢れ、その必要性を訴える人は非常に多い。もちろん建前としてその必要性は認めるが、こうした言葉に依存するということは決してよくないのだろうと思う。

 日本はもっともっとタフネゴシエーターになる必要がある。私はTPPについては今でも懐疑的な考え方を持っているが、ただ日本の粘りと交渉力については正直見くびっていた。できれば内閣が替わっても、同じような交渉力を発揮できるような国になって欲しいものだ。