Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ラストリゾートの終焉

国立大学文系出身者 就活でも会社でもバカにされ肩身が狭い(http://www.news-postseven.com/archives/20150911_349783.html

 現状、一部で醸し出されている「理系でなければ意味がない」と言った雰囲気には正直反論したい気持ちが強い。その大元は文部科学大臣の一言(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150911/Mainichi_20150912k0000m040059000c.html)だが、理系重視の動きを文部科学省全体(すなわち国)が進めているのは間違ない事(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150817-00076705-diamond-soci)だ。

 昔から、大学は一部の理系を除き学生たちは比較的楽な生活を送っているというイメージがある。当人たちがどう思っているかは知らないが、私自身も課題に追われて徹夜したことも何度もあるものの、今振り返れば必死に勉強や研究に勤しんできたとは言えない。
 むしろ遊び呆けていたと言われても、それ同意するほかはない。要するに、私が過ごした大学時代は人生におけるラストリゾートだった様な気がしている。別に大学をラストリゾートとして捉えることがすばらしいと言うつもりはないが、同時に大学が持つ多様性が失われるのではないかという器具も抱いてしまう。
 私が考える大学というものは、学生が教えられるのではなく、学生が自らの目標を立ててそれを実現するために教員がサポートするというスタイルである。もちろん、学生時代にもっとも適切な道のりを見いだせるはずもなく、社会経験も劣るため往々にして不適切なチャレンジをしようとすることもあるだろう。
 それを無駄と考えるのも一つの見識ではあるが、無駄があるからこそ良い人材が生まれてくるという考え方も一方にある。大学時代に狭い世界に閉じこもってしまうよりは、広い世界や様々な考え方に触れることで将来のための素地を作るというのも大切なことだと思う。

 本当の仕事というものは、演習しかできない大学ではやはり難しい。もちろん演習等にも大きな意味はあるのだが、高校生までの延長線のような与えられたものをこなすスタイルは、多くの働き蟻を生み出すことは出来るが、それを指揮するものは生み出せない。
 日本という社会を考えた場合において、一定の品質を確保して提供するためにはマニュアルを忠実にこなす働き蟻の存在が欠かせない。これは、量販店などにおいて多く見られる姿であり、それが社会の質を高めているという側面は無視し得ないだろう。
 しかし、新しい社会を切り開いていく存在はこうしたパターンからは生まれにくい。むしろ、自分の裁量により自由に考え行動する者の方からこそ生まれやすい。果たして、そのような存在を大学は生み出しているのだろうか。

 例えば、高学歴プアと低学歴リッチの話がたまに雑誌などで話題に上る。一流企業に幹部候補として勤めれば、かなり高い給与を得ることも出来るだろうが、そのポストに就ける者はほんの一握りである。中小企業で働いても、一部のベンチャーで創業時に利益を得るなどがない限り、大きな報酬を受け取れるケースは多くない。そして、それにチャレンジするのは働き蟻ではなくチャレンジャーである。
 一方で、学歴が高くなくとも稼げる職業というものは必ず存在する。もちろんその世界でも成功する人は相当な努力を払っているのは間違いないが、学歴のみで将来が決まるわけではないと言うことには注意が必要であろう。
 大卒と高卒の平均生涯年収を比べて大学の方が良いというのは簡単だが、本来こうした分布は大きく広がっているものなのである。下克上とは言わないが、ひっくり返されるケースなどいくらでもあろう。

 さて、翻って大学のあり方について再度考えてみよう。文部省(現在は文部科学省)の無作為というか放置により、若年人口が減少を始めたにもかかわらず大学の増設が続いたため、今になって急に締め付け始めたというのはわかりやすい構図である(旗振りは財務省の圧力でもあるが)。
 だからと言ってどこかの大学を指名して取りつぶすということが出来ないから、様々な手を講じて定員減を進めようとしている。それ自体は悪くはないと思うが、その結果生まれるのが働き蟻のような人材ばかりが輩出されるとすれば、私はそれこそがないより問題だろうと思う。
 歯車は遊びがなければうまく回らない。その遊びの心をどこまで残せるか、それなしには無惨な結果となるように思うのだが、どうだろうか。そこでは、理系が優遇されるべきとかいった世界ではないと思うのだ。チャレンジ力と発想力と認識力、これらを教えられるところであれば大学としての価値は十分にある。
 逆に言えば、それを教えられない大学教員が多すぎると言うことなのかもしれない。