Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

大学教育が与える生き方

 以前G型L型(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20141205/1417770764)というエントリを書いた。今後あるべき大学の姿を端的に表そうとしていたものだ。ただ、グルーバルかローカルかという分類は、私個人としてはしっくりといくものではなかった。
 と言うのも、何かのテーマに深く足を踏み入れれば、当初はローカルのものであっても最終的にグローバルに行きつくと思ったからである。「それは研究だけの話」と言う声も聞こえてきそうではあるが、教育においても本質は同じではないかと考えている。フィールドをどこで展開しているかと言う違いのみである。だから、世界を目標とした研究に主眼を置いて特化した教育体制がグローバル型で、それを目指さない地域に根差した教育に特化したものがローカル型という分類は、結果的に同じ一本の線上にある。どの時点まで学生を指導するか、もしくは学生が大学から離れるかの違いであると思う。

 そもそも、大学で学生は一体何を教わるべきであろうか。専門知識?確かにそれは必須だ。加えて専門に限らない数多くの幅広い知識。それもあるだろう。あるいは、当然必要とされる倫理や一般常識。だが、単純に知識を獲得するということに関して言えば高校までの状況と大きくは変わっていない。違いがあるとすれば、高校までの様な画一的でかつシステマチックな指導プログラムがないため、学生の努力がより必要となる点くらいではないか。
 元々日本における一般的な教育体制の認識は、小学校から高校までは基礎的な知識を先生から教わり、大学では学生が自主的に学びに向かうといったところであろうか。実際には、小学校から高校まででもある程度自主性を尊重する教育は行われているところもあるだろうし、逆に大学であっても主体的に動かない学生を強引に引張って指導するというパターンもある。自主性の違いについて言えば、年齢を重ねていることを考えればそれほど大きな違いはないと考えている。
 知識面に関して言えば、大学とそれまで行われてきた教育との差は専門性以外にそれほどないのではないか。

 例えば、大学の卒業研究で教員が専門外の研究を学生にさせるのはなかなかに難しい。単位を与えるためには一定のレベルの卒業研究を行うことが必要であり、教える側は学生が取り組む以上の知識を持っていなければ適切な指導ができないからである。画して、多くの研究室では教員が行っている研究の一部を学生たちが分担し、それを卒業研究としていることが多くなる。もちろん、卒業してくれれば御の字とレベルを無視した内容でも単位を与えるケースもあるだろう。
 もちろん専門性は高校とは比べものにならないが、単純に知識を覚えてまとめるというだけでは大学の教育としては不足する。

 しかし、私は先ほどの大前提(大学では学生が自主的に学ぶ)に加えて別の視点を考えている。大学はまでの教育は知識という結果を身に着けるための期間であり、大学以降は不確定な状況から知識を生み出すための教育課程ではないかと思うのだ。「生み出す」という言葉に様々な意味を込めたため明快ではないが、不完全な情報から条件を探ると考えることもできる。
 確実に辿りつける温室管理の苗床の様なシステムではなく、不完全な状況から何かを見出すための方法を身に着けること。もちろん高校でもできなくはないが、基礎的な知識が不十分な状況では導き出せる範囲は狭くなりがちだ。

 私は、社会を生き抜くための情報獲得手法、自分なりの情報整理手法、その先に新たな可能性を発見するための手法とまとめ方が重要なのではないかと考えている。大学における専門性はそのためのフィールドに過ぎない。もちろん、自ら選んだフィールドの専門性をもって世界に発信できる研究をできれば最も良い。だが、重要なのはあらゆる分野において用いることのできる柔軟な思考や能力。それを学生に獲得してもらうことが何より重要だと思うのだ。
 だとすれば、大学の持つ専門性は目的の一部ではなくあくまで手段に過ぎない。そして、教えるべき根幹は現代社会における生き方そのものではないかと思う。現代が狩猟生活の時代であれば、そのための合理的な手法や考え方を教えるし、あるいは改善のための手法を検討する(例えば農耕技術の研究など)。
 それはあたかも技術や論理を扱っているように見えるが、根本は生き方を教えているのである。

 最初に、G型・L型の分類には大きな意味はないとの趣旨のことを述べた。それは、地域をフィールドとしても世界に繋がる研究や取り組みは十分できるからである。要するにどこまで突き詰めるかが問題となる。L型を職業訓練校の様な分類として取り上げられていたと思うが、単なる流れ作業をこなせるレベルでは意味がない。
 トヨタの「カイゼン」が世界に広がったように、ローカルを突き詰めれば何が生まれるかを考える場所として、大学は存在すべきなのであろう。