Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

持て余す気持ちの置き場所

橋本志穂、実母が亡くなったことを報告 ブログに寄せられた心ないコメントに怒り爆発(http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160507-OHT1T50115.html

 熊本地震では、悲惨な被害の中にもいくつかの光明が見出されると共に、別の意味で問題とされるべき事態が明らかになった。政府や自衛隊の対応は、喜ぶべきことではないものの災害を経験するごとに向上しているように感じている。阪神淡路の時の政府の混迷や、東日本の絶望感に比べればメディアの進歩の無さ以外はシステムとして対応できるようになってきている。
 だからこそ余計に気になって来るのが、謂れなき中傷や吐き捨てるような言葉の数々である。少し前には「日本死ね(http://anond.hatelabo.jp/20160215171759)」が取り上げられた。その意図がどこにあるかは知らないが、抑えがたき感情を吐き出そうとしていることはわかる。ただ、それを一人で虚空に吐き捨てているのではなく、意識・無意識は別にして誰かの共感を得ようとしている意図が私には感じられる。

 一時期、不良と呼ばれる存在が社会の中で一定のシンパシーを持って受け入れられてきた(尾崎豊などに代表される)。モラトリアム的である反社会的な主張が、ある種同情的に受け入れられてきたと言ってよい。しかし、最近の半グレに対しシンパシーを感じる人はほとんどいないだろうし、それほど極端ではなくとも若者の社会に対する反抗に同情的な意識が投げかけるのはかなり減少しているように感じる。未だに一部地域では荒れる成人式が見られるようだが、野放図な狼藉に社会は同情よりもむしろ拒否反応を示していると言ってよい。20〜30年前とは明らかに違った反応だ。だが、若者の突発的な行動が大きく変わったとは思わない。主たる行動原理は昔も今も大して差がないと感じている。だとすれば、変わったのは社会の方と考えるべきであろう。
 現実世界の問題ではないが、漫画では未だにヤンキー的な喧嘩に明け暮れる作品が一定の地位を占めている。ただ、そこに見える物語はやや現代的ではない。むしろ一昔前の社会に良く似た香りがしている。不良なりの筋の通し方、捨てられないもの、古き良きヤクザ的な任侠道に通じる何か。一種ノスタルジーのようにも思えるそれは、ある種代償行為として漫画の中にだけ許されているような感じである。

 別に、私は反社会勢力の闊歩を由とするつもりはない。ただ、一方で人間の本質には暴力も、情けなさも、淫猥さも全てが含まれていると思う。だから、本来あるべきものを完全に無いものと扱う学級会的な動きにも、同意できずに否定的な見解を示す。理想とすべき社会があるのは理解できるし、それに向けて努力を続けることも必要であろう。だが、論理や正論のみでは制御しきれないのが人間の本質であり、その汚い部分も含めて如何にうまく合わせ飲むかが社会の在り方だと思うのだ。
 人間社会とは、本来それぞれの本質や個性が異なる者たちの集合体である。だからこそ、軋轢が生じるのは当たり前であり、時には容易に回避できないトラブルにも遭遇する。それを排除すればよいのではなく、発生した時の問題の広がりを如何に抑制するかが重要であると私は思う。
 例えば移民問題を取り上げれば、多民族が文化を越えて共生するという理想には共感できるが、その理想を為すためには乗り越えなければならない問題が非常に多い。その問題は、数十年程度で容易に乗り越えられるものではないと考える。逆に言えば、様々なトラブル(例えば感情的な対立など)が生じることも大切な通過儀礼ではないかとすら思うのだ。いきなりトラブルそのものを根絶しようとするような考えには同意できない部分も多い。むしろ、トラブルが予測されるのであれば多文化共生を強引に推し進めなくても良いではないかと考える。

 人間は、個別にその率は異なるものの善性と悪性を併せ持つ存在である。悪性を有しているということを承知の上で社会を円滑に動かすため善性を称賛するのは良いが、それのみでは陰で意識の中に悪性が抑圧される。そもそも、自分の内にある悪感情は誰もが否定したいもの。だが、消し去ることのできないそれを無意識のうちに感じ取り、知らぬ間にストレスを抱えてしまう。
 私は、自分の心の中にある悪性と共存できる生き方を目指すべきだと考えている。そのために必要なものが「許し」である。独善的で、汚く卑怯な考えも人に迷惑をかけない範囲で一時的・部分的には許される。しかし、その上で少しでも改善すべく努力を続けていくこと。それはあたかも宗教的な「許し」にも通じるもの。全体的な「許し」ではなく、個人に対する部分的な「許し」。

 しかし、今の時代社会的な悪のみでなく同調圧力(空気、雰囲気)に従わないことすらが社会的な悪性となんとなく捉えられている感じがある。それこそが、冒頭でも触れたネットの暴走に繋がっている。自分の悪性を認めがたいストレス。それを勝手に見なした他人の擬似的な悪性(非同調的な事)を叩くことで解消させようとしている。
 ネットの匿名性が後押ししているのはその通りだと思うが、それ以上にマスコミの態度もまたこうした行為を許容させる雰囲気を形成する。マスコミの人間がどれだけ高尚かは知らないが、叩ける相手を叩く、しかも徹底的に。それが暴走しすぎているのが現状ではないか。元々、陰で人の悪口を言うのはどこでもあったこと、ある種、人の持つ性でもある。だが、それに何らかの縛りをかけるのが道徳であり、社会の規範であった。いや、そうしようとしてきた。
 今では「文春砲」と呼ばれる週刊誌のスクープ。娯楽としては良いし、政治家などの不正を叩くのも良いだろう。だが、政治家においても思うが全てが潔癖でなければならないという雰囲気の広がりには正直息が詰まりそだ。あるいは相撲の横綱、そしてプロスポーツ選手。はたまた芸能人たち。「有名税」という言葉で代表されるような、叩かれてもいいではないかといった感じの共同幻想。賞金やメディアの露出により所得を得ているのだから、気にくわないものは叩き潰しても良いという曖昧な権利意識。

 その全てを否定することはできやしない。完璧ではない、むしろ不完全な人間が寄り合って出来ている社会でなのだ。自分の中に抱えた不満や嫉妬などの持て余す気持ちを、何らかの方法で解消しなければ息が詰まってしまい自分自身の心が壊れてしまいかねない。
 問題は、その不満や不安を他者を攻撃することで解消するのが良いのかと言うこと。正面から問えば、大部分の人は良くないと答えるであろうこと。それを別の方法で解消する術を社会は準備できているのかと言うこと。実のところ、それなしに正論がまかり通って来たからこそ逃げ場を失った人たちが、暴論を広げているのではないだろうかと感じる。
 ただし、そんなもの関係なしに暴論しか言わないある種壊れた人たちも一定の割合で存在し、その存在故に逃げ場を失った人たちの存在が隠れているような気がしている。宗教ではない小さな心の逃げ場。持て余す気持ちを受け止めてくれる存在。それを特別ではな場所に設けること。

 一神教ではない日本においてこうした「許し」の場所や存在が希薄になっているから、暴論に逃げ込まなければならなくなっているのではないか。マスコミの過剰な追い込みや、ネット上での様々なバッシング。それらは個性や多様性に対する許しではなく、むしろ同一化を迫る圧力となっている。
 一定規模集団の自己同一化は、様々なグループにおいて当たり前のように見られる現象である。多くの場合は、グループ外に強く牙をむける。ただ、ネットのそれから感じられるのは明確な集団帰属意識すらない人たちの攻撃的な意識。それはあたかも社会から見捨てられたから(原因が本人によるとしても)抱いてしまう、自暴自棄に近い心境の暴論コミュニティのように思える。

 分かり合える仲間が欲しくて欲しくて仕方ないのに、自分をさらけ出すことができずに自分の存在を他者の被害を持って確認する社会。こうした気持ちを受け止めるには、社会は余裕を失いすぎているのであろうか。あるいは宗教的な存在でなければ受け止められないとすれば、それは少し悲しい。