Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

性や死のタブー

 児童ポルノの規制には私も個人的には賛成であり、抵抗する力や知識のない子供が不当に利用されることは取り締まられるべきだと思う。あるいは、世の中に性を表現する情報があふれ出しており、子供達をそれから守ろうという流れも理解できる。平和な日本では想像も付きにくいが、世界には多くの人身売買が日常の近くに存在し、その対象の大部分は子供なのだ。世界最大の人身売買は、人口の多い中国やインドで行われているが、日本人も場合によっては拉致されオークションにかけられる可能性が皆無ではない。それは欧州でも東欧を中心に日常から乖離したものではないし、メキシコの惨状は最近しきりに情報が流れているが、まだ日本のメディアが本格的に報道はしていないので日本人の認識にまでは根付いていないだろう。

 人生は理不尽で、世界は矛盾に満ちている。このことを子供の内にどれだけ知るべきかはわからないが、その理不尽さを受け入れられないような人を多く生み出すのは、社会としてはあまり得策ではないようにも思う。日本を含む一部の文化圏では通用しても、そこを一歩出るとその違いは歴然である。むろん、理想の社会は世界に溢れる矛盾が少しでも小さくなることであるが、理想の世界と現実に追い求める世界は必ずしも同じではない。
 私達は、過度の理想論を追い求めるのではなく、理想と現実の両者を見据えてその間での落としどころを常に考え続けなければならない。憲法第9条の議論でも感じるが、私も現実を無視できるならば世界が戦争のない状態になればどれだけ素敵かとは思うし、そのために日本ができることはどんどんと行えばよいと思う。ただ、世界が日本やアメリカと同じような生活を送れば資源は使い尽くされてしまうのだから、日本人が現在の生活水準を大きく落としたくなければ現状世界にある格差は、建前上はともかく実質的には容認せざるを得ない。
 結果として、生活レベルに大きな差がある国同士で同じ価値観や概念が通用する訳もなく、紛争を引き起こす種は何処にでも転がっている。韓国や中国が日本に難癖をつけてきているのは、歴史が理由ではなく歴史は方便に過ぎない。根本的理由は生活レベルの差が全てであろう。

 さて、此の理不尽さを最も身近に感じるのは、日本国内で言えば「死」と「性」だと私は思う。もちろん、就職差別やその他のいろいろな理不尽なものは存在するが、圧倒的なそれを誰もが感じるのは、この2点だと思うのだ。
 「死」は日本社会において本当に生活から遠ざけられた。子供達は、「死」の汚さや苦しさをあまり直視することがない。親族のそれを見ることはあっても、綺麗にデコレーションされ覆い隠されている。「穢れ」の思想が現実化したのが現代社会なのかもしれないが、そのリアリティが薄れていることが子供達の精神的な成長にどれだけ影響を与えているかは十分には議論されていないようにも感じる。
 「性」の問題も同じで、人間は理知的ではあるが生物である以上その本能的な行動を抑え込むことはできない。もちろん、明け透けにそれを子供達に教えれば良いという訳ではないが、その社会におけるリアリティの減少というかタブー化が、一定以上の年齢になってもその情報に触れられないことの危惧感を抱かせる。現在の少子化をここに結びつけるのは暴論だとは思うのだが、理想化された「性」が蔓延しているのも社会において人々の心を現実から引き離してはいないだろうか。

 私達が物事を理解する時には、理想を抜きにしては語れない。しかしそれと同じだけ現実を知ることも重要であり、この両者を見つめることで妥協点としての落としどころを見付けなければならない。この時、理想が勝ちすぎても現実に囚われすぎてもいけない。
 現代の日本社会は、少なくとも「死」と「性」について理想にやや偏りすぎではないだろうか。これを見直すことが、その他の問題を論じる時においてもそのバランスを的確に維持させる上で重要だと感じている。