Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

理想の在り方

 万物の「理想」を真面目に追求しようとすれば、あらゆることを確実に遂行できる完璧な人間が求められるのかもしれない。ただ、現実に完璧な人間などは存在せず、すなわち万物の「理想」は体現しない。また、仮に完璧な人間が存在するとして、その人間からすれば行う行為は通常のことであってこれまた「理想」に向けてのものではない。
 結局のところ、不完全な人間が集まって「理想」にどれだけ近づけるかを考え続けるのが社会の存在意義だろう。それでも、求めた先に行きつく「理想」が全ての人間に幸せを与える訳ではないことを私達は知っている。「理想」はあくまで個人一人一人(時に集団)が抱くものであり、「理想」の最大公約数をあたかも追い求めるべき目標として社会は模索するが、本当にそれが皆に幸福をもたらすのかも実のところ判っていない。
 ただ判っているのは、社会を構成する集団が単一的であるほどに「理想」を掲げやすく、多彩であるほどに「理想」に協調できないものが増えると言う程度のことであろう。

 さて、「理想」という言葉は想像できる中で最適な状態(あるはそれ以上の想像も及ばないものも含めて)を示すと考えるが、そこへの道筋が緻密に計画され考えられていることはない。どちらかといえば、至る道が明確であるものは既に「理想」ではなく現実の一部となっている。結果として「理想」は常に変化し続ける。
 中世の圧政と貧困の時代の人からすれば現代社会は見かけ上、「理想」として容易に思い浮かべることもおぼつかないパラダイスであろうし、すなわち人間が完璧でないこと以上に「理想」の定義が定まらない。果たして、私たちが抱く共同幻想としての「理想」とはいったい何なのだろうか。

 「理想」と「正義」は似ている面がある。「正義」は、個人あるいは一定の集団が抱く「理想」を実現するために行使される力や行動である。「理想」を持たない場合には「正義」と成り得ないが、そもそも「理想」は万人に共通のものであるとは限らない。
 万人共通であるかと思える『平和が人類の「理想」』というフレーズも、結局のところ戦火が止むことのない人類史を見ていれば叶うことない幻想にすぎないことがわかる。誰もが自分に都合の良い平和を求めるとすれば、「理想」としての平和は存在し得てもそれが実現するためには別の形を掲げる者たちの失望が重ねられることになる。
 「総論賛成、各論反対」という言葉が端的に表すように、「理想」はふわふわとした曖昧さの中に根を張っている。個人レベルであっても掲げる「理想」は都合の良い部分のみを取り上げたものであって、それが実現されることにより生じる不利益についてはあまり真剣に考えられることはない。更に集団の「理想」となれば一人一人がそこに求める具体像は少しずつ異なることとなり、一人一人の焦点は少しずつずれている。

 「正義」や「幻想」という言葉で括るよりも、「夢」と言う言葉でまとめる方が「理想」を形容するには相応しい。すなわち「理想」はある意味において実現しないからこそ「理想」であり続けられる。私達は決して叶うことのない理想を常々追い求めながら、その目前で「現実」を積み重ねている。
 言い方は適当でないかも知れないが、馬の顔の前にぶら下げられた人参がまさに「理想」を示す比喩の一つではないだろうか。もちろん、突発的な大風が吹いて偶然それを口にできることはあるかもしれない。ただ、それはおそらく偶然なのだ。同じことは続かないし、もし仮に容易に手にすることができるようになればもはやそれは「理想」ではなくなっている。
 これを「理想」とは常に「現実」に取り込まれる存在と考えるのか、あるいは「現実」と「理想」の間には大きな断絶があると考えるのかは人それぞれであろうが、あくまで「理想」の範疇を小さく捉えるか大きく見るかの違いに過ぎない。ただ、「理想」を「現実」に取り込んだと考えられる時も、実はその「理想」の一部分しか実現していないことは多い。

 私達は、「理想」の一部を実現できると多くの場合それで満足できてしまう。一部の実現では本来「理想」に届いたとは言えないのだろうが、「理想」の最も良い使い方はその一部分を少しずつ囓り続けることではないだろうか。
 「理想」はタマネギのような存在で、私達は常にその皮を少しずつ食べて満足しているという訳である。皮を食べる行為を「理想」の一部に到達したと考えるのか、「理想」の根源には全く届かないと考えるのかは本人次第だと言える。
 実のところ私達は決して「理想」に到達得ない。「理想」であったはずのタマネギの皮は食べた瞬間に自分の血肉となり、意識の中で「現実」の一部に取り込まれる。仮に偶然得られたそれであっても「現実」と認識することがあり、その時私達は「理想」と「現実」のギャップに苦しめられる。

 それでも、「理想」は私達の生きる活力の一つであることもまた間違いない。活力であるが故に、「理想」は「エゴ」と密接な関係にある。概念的には「理想」と「エゴ」は対極的な存在であるかもしれないが、両者の最大の共通点は個人(あるいは特定の集団)の意識の中に存在していると言うことだ。
 「理想」が内在的である時には問題はないのだが、それを外に広めようとする瞬間に軋轢が生まれる。宗教活動も、環境運動も、市民活動も、反原発運動も、もちろん嫌韓嫌中活動も全て同じ様な存在である。それぞれが思い描く「理想」あるいはそれに近づくための考え方を他者に押しつける行為であるという意味において「エゴ」の開陳となる。
 ただ、他方で言えばそれの集合体が社会であるとも言えるだろう。私達は常にお互いが共有できる範囲の「理想」を確認し合いながら繋がって社会を構成する。だとすれば、個々の意識や考え方が大きく異なる社会においては「理想」は曖昧な形でしか存在し得ない。
 先鋭的な「理想」は同好の士を集めるだろうが、社会全体を取り巻く常識には登りつめられないのである。

 曖昧さは様々なケースで誤解や認識のずれなどトラブルの種を社会に残すことがある。だからこそ現代社会は「契約」という曖昧さを消し去るルールを導入している。それでも社会が描くべき曖昧な「理想」は、緩やかな結びつきを継続していく上では何より重要なものなのであろう。
 「理想」が結実した最も重要な部分は、実のところ私達が抱いている「常識」なのかもしれない。