Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

職のない時代

 1年程前に関連するエントリを書いた。
人ならざるものとの競合:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20140411/1397228176

 今、多くの職業がコンピュータまたはそれによて操作されるロボットにより取って代わられることが危惧されている(http://biz-journal.jp/2013/11/post_3251.htmlhttp://news.livedoor.com/article/detail/9447763/http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40925)
 基本的には単純労働が機械に取って代わられるのは既に始まっている。最初は再現できなかった熟練工の技も、度重なる改良を経て人以上の信頼性を持って再現しつつある例も少なくない。もちろん一部の業種や技能は機械による再現が難しいものもあるが、これもあくまで現時点ではと言う事であり、あるいは量的な意味でロボット化に適さないということでもある。
 逆に言えば、大量に物を作る仕事についてはコスト面の目途さえつけばいつでも人間の方が切り捨てられるということでもある。工場の海外進出が雇用の機会を奪っているという議論があるが、仮に日本に工場が戻ってきても多くの単純労働者を受け入れるという選択肢は考えにくい。
 もっとも、全てが機械取って代わられるというプロパガンダをしたい訳ではないし、現実に近い未来にそれが起こるとは思わない。いくら機械が能力を高めたとしても、現状において総合性を獲得していると言えるレベルにはない。あくまで高い精度で人間が持っていた技術力を模倣しているに過ぎないのだ。

 ただ上記に示した古い記事にもあるように、10年以上と言うスパンで考えた時に警察官や弁護士(最後の記事ではその補助者)と言う特殊な業務でさえ、コンピュータに取って代わられる可能性があることは大きなショックを持って受け止められるであろう。その全てが機械に置き換えられるわけでは無いものの、一種特殊な技術により守られ安泰と考えられるような分野でさえ守り切れるとは限らないということなのだから。
 他方、クリエイティブな分野は取って代わられる可能性が低いとされているが、これすらも私は正しくないと思う。芸術は確かに人間の閃きが関与する特殊な創作物ではあるが、これについてもごく一部の独創的な作品を除けば過去の組み合わせやアレンジにより創出されてしまうこともあるだろう。人工知能が東大入学を目指している(http://21robot.org/)というニュースもあるが、少なくとも過去の情報検索については人間を遥に超える能力を有しているのである。
 音楽分野でも、コンピュータが音楽を作成するシステムの研究は進められている(http://irorio.jp/utopia/20140815/155493/)。成立させる手法さえ見つけ出せれば、他の芸術分野であっても人の手に依らないものが生まれることを可能性としては否定はできない。

 いやいや、コンピュータには真似できるはずもないと高をくくるのは必ずしも得策ではない。以前のエントリでも触れたが、現在コンビニは高級洋菓子にかなり近づいたレベルのスイーツを安価に売り出しているではないか。あの技術と芸術との差がどれだけあるのであろうか。
 この問題を考える時、技術ではなく技能までコンピュータによりトレースされ得るのかが問題となる。正確に言えば、トレースできるものは技術であって技能ではない。技能とは、非常に微細で体系化されていない体系化されていない技術の重層的な集積であると私は考えるが、ビッグデータの活用によりこうした技能までも機械が分析してトレースできるようになれば、個人のスキルを伝えられない人間と異なり機械は正確に技能すらも技術化してしまう。すなわち、人間の優位性は大きく揺らぐことになる。
 もっとも、感性がそこに加えられるのが人間の制作物の特性であり、その詳細な分析がいつ頃できるようになるのかは、多少の時間的余裕もあるだろう。

 それでも、人間を代替できる技術が広がれば広がるほどに、生産の現場では人の扱いが軽くなっていくというか、人そのものが一部のコントロール要員やメンテナンス技術者などを除いて必要なくなっていくであろう。全ての工場が変わるわけでは無いがそれでも、こうした場所が増えるほどに人は働く場所を失っていく。このイメージは随分昔のSF小説でも想像されていたことだが、私が思うに小説以上に深刻な問題を社会に訴えかけるかもしれない。
 人の代わりに機械が働く理想社会のイメージはあっても、現実には仕事にあぶれた大部分の人たちは今の社会の仕組みでは恩恵を受けることができない。おそらくベーシックインカム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A0)等の施策により、工場生産等の恩恵を幅広く社会にばらまく必要がある。安定すればそれも一つの社会形態かもしれないが、そこで生み出される社会の姿を私自身まだどのようななものとなるか具体的に想像できていない。

 おぼろげに考え付くことは少なくとも過渡期には何某かの問題が生じることであろうか。一部で機械が人間を追い出し、しかし別の場所では同じ職種で人がまだ働いているというアンバランスが生じた時、人件費低下や失業による問題が社会を大いに悩ませるはずである。
 加えて、工業化・ロボット化の進展は並行して普及一般化によりコストダウンを推し進める手立てともなる。すなわち、国際的競争力をそれにより得ることを意味する。人間以上の生産性を有すれば、初期コストはかかるとしてもトータルでのコストダウンは計算のうちであろう。これは、他の国の国民の生産(=所得)を奪うということにもつながりかねない。少なくとも、国際的な競争力は世界中の給与を押し下げる方向に働こうとする。
 あくまで極論ではあるが、超ローコストで人間の労働力をほとんど必要としない生産設備ができたとして、人の存在価値は何を持って見出すべきなのだろうか。数回前のエントリにおいて、創作者が余り始めていることについて触れたが、自らの存在意義をこうした場所に求めるケースは今後益々増えてくると思う。
 その創造性さえもひょっとして人以外が担うとすれば、人間の労働は伝統技術・技能として記録保存すべきものとして生かされるようなことも考えられなくはない。一部の特権階級としての労働者とその他大勢がいるような社会構造が考えられる。もちろんわずか10年先にそれが到来するとは思わないが、そのような社会状況にいかに対処すべきかは今から徐々に考えていく必要があると思う。

 他方で、経済を考えれば消費が無ければ生産は意味をなさない。求められるのは、ばらまかれたお金を確実に吸い取られる社会となる。ベーシックインカムにより生きていく上で最低限のお金が国民にばらまかれ、社会システムをメンテナンスする少しの労働者がいて、一部の社会システムを管理する人たちのみが大きな資金を自由に扱う。
 仮定に仮定を重ねた夢物語ではあるが、その姿は労働の問題は別としても中世の貴族社会のような姿にも見えてくる。権利を奪われた奴隷ではないが、生きていく望みを奪われた精神的奴隷とでもいうような姿なのかもしれない。憂さを晴らすために、創作に勤しみあるいはギャンブルに講じる。はたまた、わざと非効率な世界を希求する。
 社会を管理する側からすれば、以下に安定した社会を維持するかのみが目的となり、結果として競争が表向き消えていく。ただし人間の性としてどこかで競争を追い求めるため、例えばどの管理者がより多く吸い上げることができるかを競うようなゲーム感覚で運営される社会が生まれるようなこともあるかもしれない。
 そのゲームに参加できない者たちには、麻薬のような娯楽が提供されプレイヤーとしてコマのように踊らされる。

 ふと考えてみると上記のような典型的な姿ではないが、今の社会も似たような姿は散見されないだろうか。競争を嫌い、争いを嫌う。無気力と言われながら慎ましく生きていく。愛と命の正義感に酔い、自分に身に危険が及ばないと判っている範囲で娯楽的に行動する。
 私などは更に日和見主義の典型で行動すら起こす気にもなっていないのだが、多くの人が働く場所と生きがいがある社会とは、必ずしも効率化・合理化の先にあるものではないということだけは感じ取っている。そして、適度な競い合いが社会においては常に求められるのではないかと。
 話が横道にそれてしまったが、職が消える社会の動きは今後も継続していくと思う。丁度、溜池通信にも倒産は減ったが休業・廃業が増加しているというレポートがあった(http://tameike.net/pdfs8/tame567.PDF)。そこでは人口動態が原因と予想されていたが、私は社会の効率化がそれに輪をかけているのではないかと考えている。私たちを取り巻く社会がそれだけ多くの企業を必要としなくなってきたのであり、それは効率化により社会が均質化してきていることに依るのだと思う。
 コスト競争に興じる限りにおいて、この流れは加速することはあっても方向を変えることはないだろう。そしてこの道は職のない社会への片道切符ではないかと私は考えている。