Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

純粋さと挫折と

 私も子供は社会に守られるべきものだとは思うが、ではいつから子供はその守護から這い出て自らの目と耳と皮膚で社会を知るべきなのだろうか。一時期にあった大学の入学式に親が付いてくると言う笑い話が、今では就職の面接や入社式にまで来ると気色ばまれている。親からすれば子供はいつまでも子供であろうがこれは相対的な評価に過ぎず、社会では絶対的な立場が存在する。子供たちはいつまで守られ、いつ守る側に立つべきなのだろうか。
 近代化以前の決まりを今に持ち込むのは筋違いとわかってはいるものの、奈良時代には元服http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9C%8D)は数え年で12〜16歳であり、江戸時代でも数えで20歳までには終えるのが普通である。おおむね18歳程度が子供でいられる限界の年齢であった。この元服が早くなるのは時代の平均年齢にも大きく左右される。親が早く死ぬことを考えれば、子供は早く自立しなければならないのは当然である。
 逆に言えば、子供が長く子供でいられるのは人間の寿命が延びていることを抜きには考えられない。もし仮に不老不死が実現すれば、子供は簒奪者の地位に甘んじなければならず、排斥されるかもしくは永遠に飼われるがごとき存在となりかねない。

 まあ、不老不死などという極論を持ち出しても話が拡散するだけだが、現代の日本社会は子供が「子供という地位」に最も安住しやすい時代なのであろう。ただ、その得やすさは一方的に子供側の都合により決められるものではない。むしろ親側の都合により大きく左右される。子供がいつまでも子供でいてしまうのは、大きな目で見れば親の都合によるところが大きい。
 加えて、現代の子供を過度に保護する風潮にはもう一つの要素である少子化が相応の影を落としていると考えずにはいられない。中国では一人っ子政策の結果子供の価値が大きく上がり、小皇帝(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9A%87%E5%B8%9D)と呼ばれるいびつな存在を生み出すに至っている。もちろん中国ほどは極端でないものの、日本での動きも全く変わりがない。少子化は高齢化とセットになっているからこそ、擬似的な不老不死社会がそこでは演じられている。もちろんその時の子供たちは排斥される側ではなくペットのごとく扱われる側である。
 肉親の側からすれば決してそんなつもりはないのかも知れないが、結果的に甘やかされた子供たちは与えられることに慣れてしまう。こうした子供たちの中には小狡い知恵を持つものもいるだろうが、それでも総じて純粋である。純粋であるからこそ、狭い世界の正義に燃え、そして挫折に対して脆く折れやすい。
 しかし、大人たちはこのガラスのような純粋さと脆さをむしろ尊いものとして壊れないように扱うのである。そこには、長く生きる時代における決して取り戻すことが出来ない若さに対する憧れがあるのかも知れないが、この憧憬が子供をそして社会を危機に静かに追いやっていく。

 考えてもみてほしい。子供達は、大人が求める姿を大人が思う以上に演じているものである。「キレる」という言葉は、どちらかといえば若者特有のものとしてよく用いられるが、実際には「キレている」大人や高齢者もあちこちにいる。大人達のそれは迷惑な存在として無視し、子供達のそれは多感な精神の発露としてむしろ容認されるように感じる。積極的ではなくとも、子供が「キレて」もそれを強く戒めるようなことが学校で行われている訳ではない。それは実質的な放置であり消極的な容認である。
 子供達は、禁止と許容の間を見事にかぎ取り成長していく。幼い内にはほとんどが禁止されるが、成長すると共に自らの判断で処理することを増やしていくのである。ところが現代ではむしろ子供の方が大人よりも自由なのだ。だとすれば、子供は子供のままでいることにメリットを感じるのは当然である。唯一の不利は働いてないことによる経済面であるが、これすらも高望みをしなければパラサイトできるのだ。
 そして青少年の幼児化はじわじわと進行し、挫折に弱い純粋を演じるのが当たり前の世代が拡大し、結果として社会は弱体化する。

 繰り返しになるが、私は純粋さを尊ぶのは純粋で無くなった者の無い物ねだりである。しかし、純粋さは貴重ではあってもそれそのものが社会に最も重要なものでは無く、また役立つとは限らない。だとすれば、子供が純粋であることは大人がどこまで守るべきものなのだろうか?
 純粋さを保護する代償として子供に大きな自由を与えることは、結果的には子供を挫折の道へと歩ませてはいないか?
 理想形としての子供の姿は確かに存在する。しかし、人は成長し子供は青年から大人に変化していく。永遠の子供がピーターパンしかいないのだとすれば、理想の子供は非実在の存在となる。社会における子供の純粋さを賛美する声は、一面で正しいが他の面では原理主義のように見えてしまうのだ。