Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

政治的無垢性

 政治腐敗や権力の暴走は悪であるが、政治的無垢性や論理的潔癖性は必ずしも善ではない。原発から沖縄、そして最近では安保関係と市民活動はある意味底堅く継続している。マスコミや一部リベラル系識者の好意的なバックアップを受けたそれは、見事に世論を動かし政権の支持率を押し下げている。
 ここで持ち出されるのは多くの場合庶民感覚・素人の抱く素朴な感情であり、前面的に押し出されるのは政治的な無垢性を押し出したメッセージであると私は考えている。そこには政治的・思想的な中立性がある訳ではなく、しかし同時に感情的に振る舞うことを正当化する方向性が見て取れる。
 無垢性という言葉で思いつく最初のイメージには「子供」がある。子供の無垢性を愛でる文化はどこの社会にもあるが、無垢が素晴らしいのではなくあらゆる可能性を秘めていることが素晴らしいのだと私は思う。無垢は身勝手に残虐で無責任でもある。しかし、その振る舞いは親という絶対的庇護者の下であるからこそ許容されている。

 社会においてはいろいろな場所でこの無垢性を利用した宣伝や商売が行われている。例えば宗教においても子供を連れての布教訪問などは、無垢性そのものではないがそのイメージの利用を狙ったものだと思う。AKBなどの身近なアイドル育てるアイドルというのも、アイドル本人の状況はいざ知らず作り上げていくという真っ白なイメージが基となっている。
 社会も個人もこうした無垢性に対する警戒心を抱き難いのは、無垢性という概念が他の思想的あるいは活動目的を覆い隠してしまうからではないかと思う。無垢とは純粋であるとの固定化したイメージがあり、純粋さは美しいものとして扱われている伝統が日本にはある。芸術の世界などでは確かに言えることもあるのだが、私はこうした無垢の裏側には無責任という言葉が控えていると考えている。
 また、無垢性の発言においては「ワンフレーズ」が強い効果を持つ。小泉政権劇場型政治はまさにそれの発現であった。現在の反安保法案活動とは全く別の向きではあるが、「戦争反対」という誰もが否定できないフレーズを前面に押し出したものだからこそ、多くの人にメッセージが届きやすい。
 それが安保法案を排除したからと言って実現できる保証などどこにもないにも関わらずである。

 しかし、本来政治というのはそのように単純なイメージ論で語ってよいとは私は思わない。政局においてそれを利用することはあるかもしれないが、政治の本論はあらゆる可能性を排除しないリアリズムの延長線上にあるものなのだ。
 無垢性とはおそらく対極にあるべきものが政治の実態である。無垢で自由な振る舞いは、それを庇護する環境があって初めて成立する。その環境が話し合いにより保たれるか。理想としてはあるかもしれないが、理想論で割り切れるのであれば本来政治は必要ない。理想と現実の間を調整するのが政治なのだ。
 私は以前より無垢性や純粋さを押し出す政治的メッセージは大嫌いであった。特に若者の甘っちょろい観賞であるならモラトリアムの一環として理解できなくもないが、大の大人がそれを臆面もなく主張するのは寒気がするくらいである。もちろん、打算があって利用しているのであれば理解できるが利用される子供や青年たちには可哀そうだなと思わずにはいられないし、本心で無垢性を信じているのであれば当人に可哀そうだなと感じてしまう。
 今では、それを使用する背景がどのようなものであるか逆に興味を持って見ているのだが、結局のところ無垢性を押し出すのは感情の発露であることに尽きると思う。「嫌なものは嫌」という感情的反応を我が儘に見せないために無垢性が利用されている。

 この「厭なものを見ない」傾向が近年の日本社会においてかなり目立ってきているのではないかということを個人的にはかなり危惧している。厭なもの見ないのは、ストレス低減に一定の効果があることは認めよう。ただ、それはあくまで個人レベルの話であって社会全体としては厭なものから目をそらしてはいけない。
 それは社会のゆっくりとした崩壊を招きかねない重大な要素であると思う。子供たちにまでそれを直視させる必要はないが、見つめなければならないこと、考えなければならないことを感情のみで排してしまえばその先にあるのは無責任だけなのである。
 政治において無垢性を利用する動きは今後も続くであろう。しかし、その裏側にあるものをきちんと見定めていくことは非常に重要だと思う。本当に戦争に繋がる道は、純粋さの積み重ねの先にあるのだから。