Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミの狗

 いろいろなエントリを書くに当たって考えてきたが、そこで思い当たるのはマスコミという報道ツールの強さである。そこに取り上げられることが一種権威となっているが、本当に意味での権威かと言えば必ずしもそうではない。むしろ世俗的な権威と言っても良いかもしれない。マスコミも努力して、それがあたかも権威であると捉えられるように苦労して積み上げてきた。
 最近の動向を見ても、マスコミの目的は常に無意識的に動乱を追っている。もちろん会社や記者達はそれを強く否定するのは目に見えているが、スクープと呼ばれるそれが指し示すのは隠された秘密を暴くよりも、小さな問題に火を付けて騒がしくすることの方が容易であると言うことだ。火を付けるには感情を煽るのが手っ取り早い。また、複雑な論理構成は一般国民委は理解され難いという面もある。斯くして、メディアは心の問題を最優先に持ってこようとする。
 ジャーナリストと言われるものは、感情といった振れ幅の大きな要素は仮にバックボーンとして持つのは否定されることではないものの、報道の姿勢としては扱ってはならないと私は考えている。きっかけが義憤によるものであったとしても、報道は感情を論理によってきちんと説明しなければならない。最近の報道を見ていて悲しくなってくるのは、ジャーナリズムとしての保持すべき論理が天の岩戸にでも隠されてしまったように見えなく感じることである。

 例えば、多数決の是非を問うような報道があった(多数決って本当に民主的? 問い直す漫画や評論相次ぐ:http://www.asahi.com/articles/ASH766755H76UCVL043.html)。多数決が最高の選択肢でないかもしれないと言うことには私も同意するが、次善の方法であるとは考えている。最高を否定すればその結果が最悪であるはずもない。こんな馬鹿な論理が大手新聞社の紙面を飾ると言うことは、正直言って目を覆わんばかりの情けなさを感じた。確かに内容は漫画などの事例をもって説明しているが、言わんとしていることは自らの意を汲む他者の意見を陳列しているに過ぎない。
 現状の流れに反対だというのは十分判るが、反駁するのであれば制度のおかしさを追求するよりは、論理の誤りを正々堂々と追求すべきではないか。それが出来ないでいるらからこそ、私の目からすると姑息とも思える感情論を振りかざすことになっている。本当に民意が反対であれば次の選挙で政権が変わり、法律を葬り去ることですら可能であるではないか。

 例えば、今回の安保関連法案への対応を見てみよう。まず最初にはっきりしておくと、私は法案に賛成の立場を取っている。戦争と言う見たくないものを想起させる可能性がある法案ではあるが、しっかり読み込めば中身は別に戦争法案でも何でもない(徴兵制導入でもない)。法案の中身を見たことが無い人がほとんどで、野党やマスコミが連呼するレッテルに世論が振り回されているように見える。だが、見たくないものに目を閉ざすだけでは問題を解決することはできない。戦争を起こさせないためにこそ、あらゆる手段を担保しておく必要があると思うが、それを否定する理由が正直私にはわからない。
 やり取りを見ていると、あたかも日本人が日本人を信用していないような不思議な感覚に囚われる。確かに歴史を紐解けば日本が無謀な戦争に突入した(せざるを得ない状況に追い込まれた)ことは紛う事なき事実である。それを反省するのは全く構わないし、私も二度とそんなことは生じさせないで欲しいと思う。そして、戦後の70年間その思いを日本国民は刻み込んできた。今侵略戦争を日本が仕掛けるなどということを考えている人はいまい。加えて、できる限り戦争は避けたいという考えを持つ人が大多数だと私は日本人を信じる。

 その上で敢えて言えば、それでも現実は自分の思いのみで決まるものではない。全ては自分とそれを取り巻く様々な要因により巻き起こされる。成功者は、自分の努力も無いとは言わないが多くは他者の配慮や偶然のタイミングによりその地位を得る。私自身、自分が今いる位置は自分の力でつかみ取れたとは露とも思えないし、そう思ってはならないと自戒している。
 しかし、その中で自分としてできたことは何かと言えば、あらゆる問題にポリシーを持ちながらも柔軟に対処してきたことだと思っている。頑なな態度では、仮にそれが正しいことであったとしても今の自分の状況を得られたとは思わない。
 ある時は人の意見に従い、またある時は戦う姿勢を見せる。全ての選択に正解してきたとは思わないが、強い姿勢と柔軟な姿勢を状況に応じて使い分けてきたからこそ今がある。様々な場面で話し合いを主体にしてきたし喧嘩上等ではないが、それでも強く出なければならない場面は必ず存在する。それを自ら縛れば交渉などできるはずもない。世の中善人ばかりではないのである。

 別に中国に武力を持って敵対せよと言っている訳ではない。対等の関係は、相応の条件を持って始めて成立する。宮崎駿監督は正直で従順なアニメーターが最高の存在だと思うのだろうか。少なくとも私はそうは思わない。刃向かってくるほどの気合いと根性は、台頭と思う相手には最低限要求したいものだ。と言うかそれがなければ、台頭の存在とはみなしにくい。
 だからと言って、全てを否定しろと過そんなことを言っている訳ではない。力と気概を見せることでようやく認められるものが存在する。もちろん人が死ぬ可能性のあることは、そうそう容易に判断できるものではない。但し、相手がそれに頓着しないものであればどうなのだ?少なくともチベットを見れば容易に判るではないか。あるいは人権派の拘束(http://www.yomiuri.co.jp/world/20150718-OYT1T50088.html?from=ytop_ylist)を見ていてもわかることはあろう。
 別の観点を言えば、何故日本でいじめはなくならないのかである。話し合いで全てを解決できるのであれば、十分話し合ってきた日本国内でさえそれが一向に解消できていない理由を説明できていないように思う。少なくとも私は無防備マン(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%98%B2%E5%82%99%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%81%8F!)を尊敬はできない。そのやり方では、いじめを根絶できるとは思えないのだから。理想と現実は違うのである。

 また異なる観点だが、国会前のデモの参加者が少なかったことについても考える必要がある(主催者発表10万人、警察発表7000人)。マスコミがあたかも国民的な反対のように訴えかけているが、その割にたった1万人弱しか集まっていないと言うことこそが問題の重大さを説明しているのではないだろうか。安保闘争の時とは大きく異なっている。また3年前にあった反原発デモと比べても規模が小さい(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7569162.html)。
 確かにアンケート結果を見ると不安を感じてる層が多いことは十分に判る。実際、今回のアンケートでは若年層ほど賛成の意見が多いことが判っている(http://www.joetsutj.com/articles/65716749)。また、女性ほど反対の層が多いことも顕著に表れている。その上で、「どちらかと言えば。。。」という設問は今回省かれているようだ。だからこそ、国民を巻き込む議論にはなっていないのだとすれば、「どちらかと言えば反対」という層が非常に多いのではないかと感じたりもする。
 もちろんだからと言って、こうした意見を無視して良い訳ではない。ただ、私は参議院での審議を進めると反対の割合が減少するのではないかと予想している。マスコミの感情に訴えかける煽りの効果が薄れてくるからである。

 さて、すっかり本題が遠のいてしまったが話を戻そう。メディアの本質は動乱を楽しむ(というかそこにこそメディアの存在意義がある)ということがある。従って、メディアとしては体制(政権)が安定していることはすこぶる都合が悪い。その上で、利益が出るかどうかよりも自らの存在価値を自認できるかどうかの方が大きな問題なのだ。
 そして、権威付けと併せて自らに都合の良い識者が集められるのは多くの人が知っている。もちろん多少の脚色としての論争は必要なので反対意見者も登場することになるが、そこでは番組を仕切る者や編集者の力の見せ所となる。あるいは感情的な論者をわざと呼ぶというのもあるだろう。その上で、マスコミは編集権という最大の権力をここで保持していることは決して表明しない。
 しかし、文化人枠としてメディアに登場することは識者としてのステイタス向上に寄与し(そうマスコミがこれまで努力してきた)併せて出演料の確保ができることもあって、両者は蜜月関係を維持できた。もちろん、一定の層が中心になっていることは言うまでもない。一部の学者を「政府の狗」」と揶揄して呼称することがあるが、「マスコミの狗」という称号があっても良いのではないかと思う。

 マスコミと言ってももちろん一枚岩ではなく、中には面白い番組や記事も存在する。本来、多種多様であるのが言論の存在意義であるように思うのだがどうだろうか。多様な意見が冷静に交わされるのが理想だが、それは民間企業であるマスコミの存在意義とは相容れないことが現状の最大の問題であろう。それを覆せるのは消費者で主権者たる民意だけである。