Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

平等について

 現状に置いて世界人類の全てが平等となることは、概念として存在しえたとしても実現することは甚だ難しいというのは多くの人が感じていることであろう。敢えて言うならば、誰もが平等であるべきという声を発する人は少なくないが、その多くには「自分が気付く範囲で」とか「意識できる範囲で」という修飾語がついて回る。身近な差別や不平等は許し難いが、普段気にすることのない範囲のそれを見過ごすのは気付かないためにスルーされているというのが一般的だと思う。
 もちろん、建前で聞けば恵まれない人たちに寄付をしようとか援助物資を送ろうという活動はあり、その行動自体を非難するつもりは全くない。ただその実効性をどれだけ評価できるかと考えた時、少なくとも問題解決には何ら寄与しないと点において自己満足的である。これを偽善と非難できるほどの崇高な行為を私が行っているはずもなく、あるいは頭の中では同じようにお花畑満開なのは自認しているが、できる限り都合の良い理想に流されないようにしたいとは気を付けてもいる。
 いつも時代も理想は甘美で心地よいが、多くの場合において無残な現実を無視することで夢見ることができるのだ。それでも理想を追い求めることには大きな意義があるが、少なくとも現実を見据えた上で為されるべきと考える。無視したり、形式上わかったフリをして理想を追い求める行為は正しく偽善に他ならない。

 さて、本題に入ろう。NGOの中には世界中の貧困や不平等に対して実質的な援助活動を地道に続けている人もおり、その活動は非常に重要で称賛に値するものも数多くある。私も偽善者の一人として災害被災者や世界の恵まれない人への寄付も幾度となく行ったし、その寄付を実行せしめるために多くの人たちの努力があることも知っている。しかし、こうした行為が世界の貧困を減少させたり平等を推し進めるためにどれだけ寄与できているかと言えば、残念ながらその影響力は非常に弱い。
 それでも、少しでも苦痛から解放される人を作ろうと努力することに意味があるというのは、これまでも書いてきたとおりである。ただ、こうした努力の末に世界中の人が笑いあえるような幸せな未来があるわけでは無い。あくまでパッチワークのように酷い状態になった綻びを塞いで回っているに過ぎないのである。ただ唯一、地道な活動が国家(あるいは多くの人々)を動かした時にようやく小さな成果を上げることができる。それもまた非常に貴重な努力であるが、確実性において確からしいものではない。なぜなら、国家や多くの人々は自分たちのことを考えるのが精いっぱいであるからだ。
 少なくとも、自分たちの保持する経済的・精神的余裕の中での行いであって、それを毀損してまで行うことをおそらく想定していない。すなわち、世界がゼロサムゲームであると考えれば世界中に人が等しく幸せになるというのは、人類活動のエントロピー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC)を最大化しようとする動きである。
 自然界はエントロピーが増大する方向に動くのが普通であるが、多くの場合人間社会はそれを減少させる方向に移行しやすい。だからこそ様々な制度を用いて均一化を図ろうとするが、一度手に入れた快適さを手放すことは多くの人にとって許容できないものとされる。

 今、世の中にある技術力はお金さえあればどこでも快適な生活を送れるようなレベルに達している。だから、世界中の人々がその恩恵を受けることができれば、形の上ではあらゆる人が(幸せかどうかは別として)快適な生活を送ることは可能である。
 しかし、地球上の人類すべてがアメリカ人や日本人のような生活を送れば資源が容易に枯渇してしまうことも既に多くの人が明らかにしている。それはすなわち、日本人も生活レベルを大きく下げなければならないということを意味するが、果たしてそれを受け入れることはできるのだろうか?
 こうした問題を考える時に、平等というキーワードに対して「結果の平等」と「機会の平等」という考え方が出てくる。上記に示すように結果の平等はさすがに問題ではあるが、少なくとも機会の平等はあっても良いのではないかと気軽に思うこともあるが、果たしてそれが実現可能なのかにつては大いに疑問も抱いている。
 昔からアメリカや日本国内で問題とされることとして、高収入な家庭の子供の方が高学歴であるというケースを考えてみよう。現実に、東京大学入学者の家庭の平均年収が1000万円近い(http://www.nenshuu.net/sonota/contents/toudai.php)と言う話があるが、日本のサラリーマンの平均年収は400万〜500万(http://nensyu-labo.com/heikin_suii.htm)だとすれば950万円という年収がかなり高いことは間違いない。
 これの結果だけではないが、社会における数々の問題を眺めてみれば機会の平等が満足されていないからではないかと疑問を感じるケースは少なくない。

 上記のような教育機会についてはその拡充(学費無料化や無償奨学金制度の充実)を図ればよいと一般的にはされるが、現実は補助を減らす方向に移行している。理由は単純で政府の財政が厳しい状態になっているからである。
 こののように機会の平等が徐々に失われているのは、行政制度が資産の再配分を上手く出来なくなりつつある証拠ではないかという考え方もあろう。私は社会主義共産主義を信奉しないが、一側面のみを見ればそう考えたくなる理由も多少はわかる。
 一方で個人の自由や財産を認めている以上、そこに国家があまり強制的に介入できないという原則が民主主義にはある。介入を可能とするために社会主義共産主義を導入するというのは少々乱暴な話であるが、この個人の権利が過剰に機能することこそが機会の平等を逸失させる大きな要因であることは疑うまでもない。
 ただ、忘れてはならないのが機会の平等を与えればそれ以上手を差し伸べないのではなく、最低限のセーフティーネットを欠いてはならない。もちろんそれは基本的に最低限である必要がある。最近、ベーシックインカム(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A0)の実証実験が行われるとニュースに出ていた(http://news.livedoor.com/article/detail/10312729/)。あたかもバラ色のように取り上げている人もいるが、もちろんそんなことがあろうはずもない。現在日本で配られている生活保護よりもレベルが下がるものとなるであろうことは、数字を少しはじいてみればおそらくわかる。

 例えばすごく乱暴な計算で恐縮だが、日本政府の支出を大雑把に100兆円として様々な事業費を半分除いたものを全国民に均等に配分すれば、概数で50兆円÷1億人と考えて一人当たり50万円/年間となる。さて、月4万円で何ができるであろうか?もちろん、働ける人はここに加えて給与を得たら十分かもしれない。他方、働けない人はこれで水道光熱費から医療費から必要とされる。結局傾斜配分が必要とされるのは明らかだろう。また、企業側もそれを前提にした給与体系を組み立てることが容易に予測できる。果たしてそれを考慮に入れていると言えるのだろうか。
 この議論が乱暴なのは理解している。より良いバランスを探ることは当然必要であるが、それは現在のシステムを変えることでも近づくことは可能だと考える。

 さて、動物界において人類は「万物の霊長」などという不遜な自意識を持ったりもしているが、一部の人間を生かす為に利用されている動植物は数知れず存在する。このことを意識する時、「人間様のみが特別である」といった尊大さが無ければこのような傲慢な態度を取ることは恥ずかしくてできやしない。
 しかし、多くの場合それを意識することなく当然の事柄として受け取っている。人類は総じて利己的であり、種としての協調関係も一部ではあるもののエゴイスティックであることを自認したがらない。私たちは、無自覚という利己的な無垢性を常に言い訳として身に纏う。
 世界における平等も基本的に動物界の格差となんら変わらない。別に無常さを訴える訳ではないのだが、基本が曖昧になるからこそ私たちは惑い迷う。その上で、社会という単位で共同して生きていく形を探し出さなければならないのだと思う。
 話が平等からかなり飛躍した感はあるが、平等の使い方には十分注意したいものである。