Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

大人になるとは

 大人と子供の違いがどこにあるのだろうかを考えるのは意外と難しい。まあ、法律上は決められていても大人のようでありながら考え方が子供と思えるケースにも遭遇するし、逆に大人びた子供というのもいる。だから実質的なそれをいくつからを大人とするの定義は非常に曖昧だ。その見立ては人によって異なるだろうし、境界線の認識も様々であろう。
 モラトリアムを乗り越えたら大人だという話もあろうが、私の実体験で言えば大人になったと思ってもモラトリアムは延々と続く。だから、多くの人は共通認識としての大人があると考えているが、実のところ大人とは何かを明確に定義することは困難である。

 定義が難しいと言ってしまえばそれまでだが、私が思う子供と大人の境界線は次のような2つを描いている。まず一つ目は「性格が変わらなくなった時点が大人」ではないかという説である。十分年齢を経ても、若いままの認識を引きずってしまう人は少なくないと思うが、人の性格や行動形式というのはおおむね18〜25歳程度で固まってくるのではないかと感じている。
 自分のことを「精神年齢二十歳」などと言うのは恥ずかしくもあるが、行動原理や物事に向かう姿勢というのは上記のような年代に固まったモノを齢を経ても踏襲しているような気がしている。もちろん、成人後に大きく性格が変わる人もいない訳ではないが、大部分の人は処世術を覚え面の皮は厚くなるかも知れないが基本の部分は変わっていないと思っている。
 だからそれが固定化するまでが子供であって、固まって変わりがたくなった時点で人は大人になるのではないかと考えたりもする。

 もう一つは「見たくないものを、冷静に見ることができるようになるのが大人」ではないかという説を考えている。人の感覚は子供の頃鋭敏で、歳を経るごとに鈍ってくる。高齢化すると我慢が効かなくなると言う面(再幼児化)もあるだろうが、多くの場合人の感覚というのは徐々に鈍り続ける。同じことは、痛覚だけではなく心理的な抵抗力としても存在する。
 ただ、痛覚の場合でも精神的なそれでも抵抗することを止めてしまえば、大人でも思いっきり痛みを叫ぶことはある。あくまで我慢しようとしての比較の話を言っていることに注意して欲しい。予防注射が痛くて怖かったモノも、実のところ注射による痛みよりも注射される恐怖の方が決定的であった。
 恐怖に慣れるというのも大人としての条件として挙げられるのではないか。恐怖は特殊な事例かもしれないが、見たくないものを見ることができると言うのは精神的耐性ができているという意味において私は大人の要件ではないかと思う。

 子供でも普段は背伸びをして大人のように振る舞っている子供がいる。それが真に大人の条件を備えているかどうかを問おうと思えば、次のような関係性を考えてみることができる。背伸びしている子供とそれを見守る大人の違いは、大人は子供を許すが子供は大人を許せないということである(一般論として)。
 子供を許せない年齢的には大人という存在も現実社会には数多く存在するので、一般論として言えるかどうかは私も微妙かとは思うが、でも本来大人とはそう言うモノではないかと認識している。別に大人が子供より精神的優位にいると断言しないが、見守れるから(そして適切に注意するから)こそ大人ではないだろうか。
 実社会でも、年齢的には大人の要件を満たしていても実質的に子供と変わらない人は少なくない。政治においても「見たくないから」中身の論議よりも単純な「嫌悪」感をもって反対というのは、ある意味子供の行動だと思う。
 もちろん背伸びした子供達も、自分たちが子供だと言うことを認めようとはしない。

 日本は社会として老成していると言われる。これは少子高齢化が進展したこともあるが、社会が成熟したことによる保守化の進展があるのではないかと考えている。すなわち、現状の居心地がよいと言うことだ。本当に大人になっていれば、現状のみならず将来に対する全てを冷静に議論することができると思うのだが、以外とそれが日本社会ではできていない。
 むしろ老齢化しているような子供の姿が私の眼には感じられる。若年寄と呼んでよいかはわからないが、現状を守ることに必死になりながらヒステリックに叫ぶその姿は、駄々をこねる子供の姿に重なってくる。

 ただ、大人には考えすぎてしまってすぐに動けないという決定的な弱点もあるように思う。大人が完璧な訳ではない。ジャンルによっては子供であり続けることが、いつまでも新鮮な創作物を提供できるということもあろう。すなわち、それぞれに得手不得手が存在する。
 得手が話す言葉には説得力があるが、不得手が話す言葉にはどれだけ権威があろうが真に心に響くモノは見えにくい。これは私が穿った物の見方でいるから感じることなのかも知れないが、それを奇貨の如く取り上げるメディアに対する不信感は高まり続ける一方かも知れない。