Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

純粋と猥雑

 私は人間とは本来が存在自体が猥雑なものであり、数々の心理的矛盾を抱える人間たちが曲りになりにも純粋さを目指すことにより社会的規律がもたらされる。猥雑さが勝れば社会には混沌が満ち溢れ、純粋さを追求すれば「水清きに人も待た住めず」と言った具合に多くの人にとって生きづらい社会が生み出される。だからこそ、その中庸を目指して丁度良いバランスを時代や社会といった背景に応じて微調整し続けるしかない。これは実のところ最適解(理想の社会)など存在しないということを意味している。私たちは夢に思い描く理想の社会を手に入れることは決してないし、そしておそらく達してはならない。
 言い方を変えれば、もし仮に私たちが最適だと考える状況に近づいたとしても、近づくほどに理想でも最適でもないと言うことに気づいてしまう。理想や最適解は頭の中(もしくは口伝)にのみ存在し、現実ではそう思い込むことしか存在を許されないのである。

 こんなことを書けば、夢も希望もない人生にどれほどの意味があるかと問いかけられるかもしれないが、夢見ることやそれを目標に抱き頑張ることを否定するつもりはない。加えて、理想の社会を手に入れることはできなくとも個人としての理想の状態を手に入れることは可能である。
 実は多くの人たちは自分にとっての最適解(理想の社会)を得ることを目的として動き、それを全体としての理想の社会だと言い、あるいはそう信じ込んで行動する。マスコミも同じように報道する。それは全体にとっての理想ではなくあくまで特定の個人の目指す理想でしかない。
 だから、私たちは常に理想の社会を追い求めるが、現実を考えた時に自分の力で切り開ける部分を除けば、理想を追求するというのが果たして正しい希求なのだろうかという考えに至る。そもそも全体にとっての理想の社会など存在するのだろうかという根源的な問いに舞い戻る。

 別の視点で見れば、不遇な環境は世界中に存在する。怨嗟の声が無くなることはなく、現状を理想的ではないと考える人が大部分であって、当然のように「社会が間違っている」という言葉は用いられる。世界の大部分の人は現状が理想の状態にはないと考え、今よりさらに良い生活を追い求めようとする。
 繰り返しになるが、このように個人として上を目指すことは決して間違いではないだろう。それだけではなく社会環境がより良くなることも当然追い求めるべきである。しかし、社会において不満を感じる一番の理由は社会が理想的ではないということではなく、自分自身が現状の社会において自ら理想的であると考える状況にはないことの方が大きい。
 おそらく大部分の人が追い求めているのは、理想の環境ではなく自分自身の理想の状態である。だから不遇な世界であってもその中で比較優位に位置できればそれなりの満足を感じてしまったりする。個人が追い求める理想とは、絶対的なものではなく相対的なものでしかない。

 そもそも、個人が抱く理想というものは千差万別である。特に、社会が豊かになるほどに人々に思考の自由が与えられ、好きな夢や理想を抱くことができるようになる。漠然としたレベルで言えば「お金が欲しい」といったものが多くなり、そういう意味では大部分の理想は似通っていると言えるかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば「(平均的な他者と比べて)多く」という修飾語が必ず付かなければならない。当然のことながらすべての人が等しく金持ちになった時、その人はおそらく金持ちではない。
 その他でも、地位が欲しい、名誉が欲しい、素敵な伴侶を見つけたい、大きな家に住みたい、様々な理想(欲望と言っても良い)があるだろう。あるいは「世界が平和でありますように」という自らに直接関係するとは限らない望みもあるが、おそらくその当人の望みがこれのみであるということはあるまい。複数の望み(理想)の中の一つとして世界平和を希求するのは決して変な話ではないし、あるいはジャンルの異なる望みとして誰もが抱くものでもある。
 こうした個人的な理想(夢)を叶えるためにはそこに至る道筋をどれだけ冷静かつ精密に描くがが重要となる。漠然とした理想や夢は、単なる都合の良い自分本位の思い込みと言っても良いだろう。子供のうちならば許される希望ではあっても、大人には実現方法を問われることとなる。そして多くの人は道筋が曖昧で適当であるがゆえに、夢に辿り着くことがない。
 辿り着かなくても良い夢を見るだけの行為であるのなら、どんな社会のことを考えた夢や理想であっても、それは自己満足を図るための道具でしかない。

 既に誰もが気付いていることではあるが、今いろいろな場所で行われている世界平和の希求も、実のところ具体像は何も存在しない。どのような形での平和なのかも考えられていない。あるいは自分達に都合の良い平和としてでしか存在しない。例えば、一つの国家が世界を征服してその支配の下での平和であっても平和には違いないが、それは求める平和に含まれているのであろうか?
 普通の人は誰もが個人的な理想を抱くものであり、その自らが抱く理想の実現を信じているかいないかは別にしてもあくまで個人的な欲求をもとにして考えられる。要するにエゴの発露である。この押し付けのエゴであっても時には社会で歓迎されることもある。いや、現実には各自に都合の良い部分のみが利用される。
 皆が金持ちになれば皆に幸せが訪れるのではなく、特定の他者(あるいは自分の周囲、情報が伝えられる国内の平均)よりも自分が恵まれているかどうかにより決定する。誰もが幸せになるためには、その個人として得たいものが上手く調和された形で配分されなければならない。しかしそんなことは果たして可能なのか?
 識者は、個に執着せずに全体的な良さを目指すように訴えるであろう。では全体的な調和とはいったい何なのか?

 宗教における原罪はこうした猥雑さ(人間集団が持つ曖昧さ)がもたらす不完全さを嫌う気持ちから生まれている。不完全さを消し去ろうという行動は、場合により人種差別や過度の原理主義的な行動を生み出す。最近話題になっているヘイトスピーチにしても、あるいはそれに反対する勢力の暴力的な抗議活動も、立場という意味では違えど行動原理にさしたる違いはない。
 純粋という言葉は非常に澄んだ良い意味に用いられることが多い。しかし、それが美しい意味に用いられるのは、誰もがそれを持ちえないと本能的に知っているからこそではないか。

 私たちは等しく猥雑で醜悪である。そして、私たちはそれを単純に受け入れるのではなく、またそれを否定しようと徒労を続けるのでもない。純粋と猥雑の絶妙のバランスを常にとりつつ、この社会の中で常に生まれつつある危機を上手く回避しなければならない。
 純粋も猥雑も片方に寄る方が行動的には厳しくとも精神的には楽である。私たちが常に考えなければならないのは、思考の快楽に浸ることなく純粋と猥雑の存在を受け入れて現実に直面し続けることではないだろうか。