Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

選択肢

 幸せとお金に関する議論はいつもよく話題にされる。お金があるからと言って幸せとは限らないが、幸せを得るために適度なお金があった方が良いとは良く聞く話である。私の拙い人生経験でも、お金は幸せの目的とはならないが、それを得るための手段としては確かに有効であると思う。そして実際お金を手段と考えていたにも関わらず、結果的にお金に執着して目的化してしまった時に失敗を重ねているような気もする。
 そもそも幸せとお金という二つの要素を対立構造として見るのが間違っているのだが、それでは幸せは何により評価されるのであろうか。幸せの感じ方は人それぞれの価値観が反映されるため、明確にランク付けを行うことはできないのだが、少なくとも不幸でないことの要因の一つとして多くの選択肢を持っていることは挙げられると思う。

 例えば、人生に絶望する時にはその人は多くの選択肢を有していると言えるだろうか。おそらく、選べるものが無くなった時に人は絶望する。一方で、高齢になるほどにその先の選択肢は失われていくが、だからと言って全ての高齢者が不幸なわけではない。だから、選択肢があることがイコール幸せに結びつく訳ではないとも言える。
 しかし、お金があれば様々なチャレンジが可能となることは厳然たる事実である。お金がなくて進学を諦めれば、全ての不幸を導く訳ではなくとも一時的な失望感はあるだろう。そのまま人生において選択肢が広がることが無ければ、やはり楽しい人生であるとは言い難い。
 他方、お金があれば幸せとは限らないことには最初に触れた。そこでは選択肢が存在しない訳ではないのだが、選択しない(あるいはできない)状況になってしまう場合が考えられる。選択することに価値が置けなくなっているような状況と言えばいいだろうか。それはすなわち選択肢を楽しめなくなっている状態を指す。

 様々な選択肢とは言っても、ポジティブな選択肢もあればネガティブなものもある。当然のことながらポジティブな選択肢は前向きな心に大きく寄与し、仮に選択肢が多くともそれが全てネガティブなものであれば精神的な忌避感がどんどんと増大していくだろう。
 幸せの一つの形態として次を期待できる状態があるとすれば、ポジティブで発展的な選択肢をどれだけ持てるかは大きな問題となろう。ところで、先ほど高齢者には選択肢がないと書いた。老い先短ければ選択できるものが少なくなるのは当然だ。だが、だからと言ってその人が不幸であるとは言い切れない。それは、思い出が未来の選択肢の代替機能を果たすからではないかと私は考えている。
 そのため、良い思い出を数多く持っている人は老いても不幸を大きく感じないで済む。老いた状態で数多くの不幸に直面すれば、良かった思い出を上書きされてしまう可能性はある。また、良い思い出が少ない人は死に直面するに際して怖れを抱きやすいのではないか。

 これはまだまだ私の推測にすぎない。若いうちには将来に対する夢、そこに至る道筋となる選択肢が数多く存在することが心を満たしてくれる。もちろん、全て理想の道を進める訳ではない。自分自身の選択により、あるいは自らを取り囲む環境のため、適切な選択肢を選べずに夢から遠のくこともあるだろう。だが、新しい選択肢を見出すことができれば再びチャレンジすることができる。
 結局のところ、夢と選択肢は非常に近しい存在なのだ。私たちは夢のことをいつも考えて話題にするが、本当にめぐり合うのは夢に至るための分岐である選択肢である。そしてそれに常にチャレンジし続けられる人生こそが、夢には至れなくとも面白い人生ではないかと思う。
 様々な事情から選択肢が閉ざされしまった人は、不幸な状態からなかなか抜け出せなくなる。選択肢が狭まった理由は、自分自身にあるかもしれないし、場合によれば誰かに強制されているかもしれない。だが、もし本当に先が見えない状態になったとすれば、自らが今選べる選択肢が一体何なのかを自分でも考え、そして他の多くの人たちに意見を聞くことが重要となる。

 人を絶望に陥れるには、その人の選択肢を奪っていく(無いと思わせる)ことが間々行われる。時には洗脳的な手法も使われるのだが、精神的に弱った人は目の前に本当は存在する選択肢を見つけることができなくなる。夢は遠い先にあるが身近には常に選択肢があり、選択肢自体には幸福を呼び起こさせる機能はないが、それを選択する行動には夢を実感させる力がある。
 私たちは、自分に多くの選択肢があることをもっと喜ぶべきであり、選択肢を増やすための努力を行うことが重要だ。最短で正解(理想的な結果)に至る道を選べるなどということは、よほどの直観力でもなければありえない。だが、数多くの選択肢を有していればいつかは理想に近づくことが可能となる。

 人は死に近づくとき、そこに抱く夢は未来ではなく徐々に過去に移っていく。それは自らの体や頭の衰えに気づき、あるいは社会的な地位の喪失を実感するなど、目の前にある現実を受け入れることで為されていくのであろうと思うが、そこに至るまでの間はより良い選択肢を多く有することに気を向けても良いのではないかと考える。