Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

願望の位置づけ

 人間、よほどの絶望に打ちひしがれていない限り誰しもが夢や希望を抱いている。夢や希望は遠くに掲げる目標であると思うが、それとは少々異なる意味を持つ言葉として「願望」がある。夢や希望と同じような意味として用いられることもあるが、時にこれらとは全く異なる身勝手な感情として扱われることもあろう。
 願望が夢や希望と異なるケースとしては、夢や希望は現在手が届いていないことを認識した上でのものであるが、願望は今すぐにでも叶うのかあるいは既に叶ったと誤認しているような状況を示す。

 その最たるものはストーカー被害となって表面化する。あるいはアイドルへの付きまといや脅迫などもこれに該当するだろう。夢と現実を混同すると言えば話は簡単だが、手が届かないはずの存在に手が届くと誤認してしまう境界線は何処にあるのであろうか。
 あるいは確信犯的に恐怖感を煽るケースもあるだろう。例えば、「放射脳」と揶揄される放射能への過度の危険視がそれにあたると思う。私も放射能が安全だと言うつもりはないが、どんなことにも必ず限度は存在する。限度を超えて原理主義的に、Dead or Aliveと白黒の決着を付けようとする姿勢は、時に妄想的な行動や言動を引き起こす(http://www.foocom.net/column/editor/12078/)。
 そして上記のようにメディアは感情論を前面に押し出し、事実関係を無視した論を展開する。

 一方で、確かに「正常性バイアス(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E6%80%A7%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9)」という危険を正しく認識できない逆の反応もあるが、これもまた判断の柔軟性を失っているが故の問題である。
 実を言えば、思い込みを現実と誤認するような願望と、正常な状態が続くと認識するバイアスは同一線上の反応として存在するのではないかと思ったりする。両者とも、目の前にある現実を否定しようとしている(あるいは否定するための理由を探す)ことに類似点を見いだせる。
 この点が、おそらく現実を否定しない中で理想を目指そうとする夢や希望と最も異なる点ではないだろうか。もちろん夢や希望でも現実を見据えていないことはいくらでもあろうが、現実を否定してまで妄想に耽るケースは夢の範疇を超える。

 現実を否定する行為は、自分の心の中に投影された社会を現実の社会よりも価値がある、もしくは正しいと考えて現実の否定を行うことだが、これは大なり小なり誰でも普段行っている。ただ、冷静になって考えてみれば社会と自分の認識の違いは自分に問題があると考えるのが普通であろう。
 「社会が間違っている」という若者が吐き出しそうな言葉は、ある一面で正しいのかも知れないが、本来社会に正しいという状態はないのではないだろうかと考えたりする。こう言ってしまえば身も蓋もないが、極論を言えば、どんな悲惨な社会であってもその状態が間違っていると言えるのかどうか。
 そんな悲惨な状態はとても許されないという認識を持つ者もあろうし、あるいは状況はやむを得ないと考える者もある。どちらにしても人間がその状態を認識し判断して始めて状況に価値が与えられる。量子論ではないが、こうした判断の集合体が社会なのではないだろうか。
 さすれば、多くの認識が変われば社会は変わる(可能性がある)。逆に言えば、認識されなければ何も変わらない。そして、特定個人の認識ではほとんど社会全体としての意味を持たない。

 斯くして共感を広げようと様々な試みが行われるのだが、夢や希望と受け止められる間はそれを得られても願望だと認識されると拒絶されることも増える。表面上、願望は思想や宗教と変わらない。
 しかし、他方で社会の認識をより良く変化させようと行動し、結果として社会が変わることがある。実はレアケースだと私は思うのだが、多くの人がこのレアケースを目指して宝くじにチャレンジし続ける。チャレンジそのものは悪いとは思わない。ただ、基本的には現実を否定しうる明確な根拠を示せるかどうかであり、それなしの願望は原理主義的になってしまうのではないだろうか。

 iPS細胞や青色LEDにしても、最初は馬鹿にされるような研究だったかも知れない。原初には、根拠を出すことの出来ない思いつきが行動の原因であったこともあるだろう。だが地道な結果の積み重ねが社会のに認識を変える事に相成った。それは自らの考えや行動と異なる社会を否定するのではなく、社会を動かすための証拠と結果を残してきたためである。
 自分の考えに溺れることは容易で快適だ。ただ、それを自分のアイデンティティとしてしまうともはや後戻りができない状況に陥ってしまう。検証と試行錯誤を省略して願望は実り得ない。そのことを自分自身への戒めとしたい。