Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

麻薬論議

 警察庁厚生労働省は、最近引き続き発生している「脱法ハーブ」に関する事件を憂慮して、新たな名称を求めている(http://www.j-cast.com/2014/07/05209693.html)。呼称を変えるなどという意味のないことをするくらいなら法律で禁止すればよいという話に一理はあるが、禁止しても禁止してもほんの少し分子式が異なるドラッグが現れて、「合法」とか「脱法」という名前で出回ってしまうため、正直言えばいたちごっこがずと継続している(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iyakuhin/yakubuturanyou/)。脱法ハーブについては以前ここでも触れたことがある(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20120302/1330614418)。

 こうしたいたちごっこ自体が悪い影響を有しているのは、理想的な麻薬としての合成物(もちろん良いものではない)が既に麻薬として指定され排除されているため、やむを得ずそのまがい物が用いられるという事であり、どんどんと性質は劣化して行き人体への影響も悪化しているのではないかという懸念があることだ。
 習慣性は既に指定されている麻薬と同様に高いものもあり、その上で人体に対する悪影響はむしろ増大したとすればより危険なものが法の隙間を縫って出回っているということである。もちろん、薬効については以前も書いたように個人差が大きく、またどんどんと生れる近似分子式の類似体を逐一調べることなどできてはいないから明確なことが言えるわけではない。ただ、現状の脱法ハーブが生み出されている状況を考えれば、効能よりは法の網をかいくぐるところに主眼が置かれているのだから、危険性は高まっていると推測する方が妥当ではないかと思う。

 最近では、アメリカの一部の州(ワシントン州コロラド州)においてマリファナ(大麻http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BA%BB)が合法化されたことは知っている人もいると思う。軽い麻薬をよりハードな麻薬への窓口と考えるのか、あるいは歯止めと考えるのかと言う議論には双方の言い分があると思うが、ゲームが犯罪を誘発するかといった議論と同様にそれぞれの国家における社会状況や文化性に大きく影響されることは間違いないだろう。
 すなわち、アメリカなどでそう言う動きがあるからといって必ずしも日本が同じ動きをする必然性はない。それでも単純な善悪論議に陥ってしまうのではなく、社会における蔓延を如何に効果的に防ぐのかという視点は常に持ち続けておきたいものである。

 また、現在の麻薬論議は使用者身体への有害性が最も大きな論点とされている。脱法ハーブの問題はここにきて自動車事故などを引き起こしていると言う社会的影響性も多少問題となっているが、仮に覚醒剤常習者が幻聴幻覚により人を襲ったりした場合でも襲ったことよりも幻覚や幻聴に陥ったこと(すなわち使用者への身体的・精神的影響)がクローズアップされている気が私はしている。これは偏った見方かもしれないが、錯乱状態の犯罪者の事件において心神喪失が問題となるのは社会問題よりも個人的な問題に重きを置いているようにも感じられるのである。
 もちろん個人における健康上の影響を無視して良いと言うつもりは更々無いが、私は乱用が引き起こす社会的問題の方が需要性が高いのだと思う。それは社会の構成員たる個人が健康を損なうと言うことも含めての問題なのだ。

 この先はあくまで思考実験という位置づけに過ぎないが、もし仮に身体に悪影響を与えない(身体的な常習性が低い)麻薬が生まれたらどうなるのであろうか?普通に使う範囲では個人が大きく健康を損なうことのない麻薬。現在でもたばこやお酒は下手すれば軽い麻薬以上に健康を害することがある(あるいは常習性が高い)という意見も存在する(http://rocketnews24.com/2010/11/02/%E3%81%8A%E9%85%92%E3%81%AF%E3%83%98%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%84%E3%82%B3%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%84%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%82%84%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%B3%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82/)。
 果たして社会としてはそれは望むべき事だろうかなどとは考えるまでもない。おそらく人間による社会活動における生産性は大きく低下することになるであろうし、こうした麻薬であってもそれ欲しさに犯罪に手を染めるものは出るであろう。肉体的な常習性はなかったとしても、精神的なそれは十分にあり得るのだから。
 そもそも、快楽を生み出すのは肉体的に摂取する麻薬(あるいはそれに類するもの)だけではない。人類を含む多くの生き物は、本能によりあるいはそれに関連付けられた感覚によりSEXを行うが、これも度が過ぎれば中毒になる。ゲームもしかり、あるいはネットへの接続もそうだし、恋愛ですら中毒となり得る。
 結局のところ、人間が関わるほぼすべての事柄は度を越せば中毒性を持つ。いや、事柄が中毒性を持っているわけではない。人間が中毒性を勝手に認識するのである。

 こうした考えに立つならば、現在の麻薬取締の範疇というのはかなり曖昧である。アルコール中毒により死亡(あるいは重篤な状況)に至る人は麻薬被害のそれよりもおそらくかなり数が多い。もちろん、一方が許容されて一方が禁止されているという根本的な違いはあるが、その線引きが一体どのような基準でなされているのかは漠然と想像しているほどには明確でない。正直歴史的経緯なども関係しており、きちんとした線引きが行われているわけではない。喫煙の影響はそれを純粋に分離することは難しいが、やはりかなりの影響を持つだろう。
 これが自動車による交通事故や、公害等の環境汚染による身体への影響などを考え始めると非常に難しい。主体的な行動による結果と受動的なアクシデントを比較することに個人レベルでは意味はそれほど感じられないかもしれないが、社会全体で考えればやはり比較対象すべきもんではないだろうか。

 麻薬を解禁せよという話ではなく、麻薬を個人レベルの問題と捉えるのではなく現在以上に社会の損失と捉えるべきではないか。そして社会損失という意味では麻薬以外にも考えなければならないことが山ほど存在する。そんなことは行政も百も承知であろうが、社会対策として取り扱うのが手間がかかり難しいからこそ、個人レベルの問題として押し付けざるを得ないのではないだろうか。
 同じようなことは学校におけるいじめもそうだろうし、他にも社会のあちらこちらに見られる日常である。明確な答えがない問題、確実な解決手法を選択できない問題。行き着くところは自分の命、あるいは集団の中の命を自ら(あるいは集団)の意思でどこまで差配してよいかというところにつながる。簡単な言葉で言えば権利と義務の関係になるのだろうが、このあたりに関する認識の曖昧さが人間らしさでもあり、そして脱法ハーブが利用される原因にも関係する。
 集団に制約されない個の自由と、集団を守る上での個の義務。これを明確に線引きすることはおそらく不可能である。ただ、個の自由が集団の維持を危ぶませるような事態は問題が拡散する前に除去される方が望ましい。

 脱法ハーブを機に考えてみた雑多でまとまらない考えではあるが、こうした問題は個よりも集団(あるいは社会)に対する悪影響を前面に押し出して考えるべきことなのではないかとふと思った。