Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

経年と柔軟さ

 典型的な頑固親父という存在を、遠回しではあるが社会が許容しなくなってからどの程度が経つだろうか?あと10年もすれば「昭和の古い人たち」という呼称が頑固な世代として確固たる地位を築き上げるのかもしれないが、考えてみれば若ければ現状で30歳にもならない状況でその範疇に含まれるのは少々忍びない。と言う訳で、今の時代において頑固親父は絶滅していくのみの存在なのだろうかを少し考えてみたい。
 頑固と頭が固いは一般的に似た内容を示すが、それでも個人的にはやや違うものだと私は思っている。頭が固いとは能力不足故の思考停止から融通の一切効かない自己中心的な偏屈さを意味し、頑固というのは自分なりの世界観を持った上での拘りの強さではないかと理解している。もちろ私の理解が一般的であるかどうかはわからないのは言うまでもない。

 頑固親父を表す一つの典型的な事例としては、国民的な漫画でもある「サザエさん(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93_%28%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%29)」の波平であろう。古き昭和の雰囲気を表現するテレビ放映は、目新しさと言うよりは懐かしさを感じさせる中身となっている。
 もっとも、波平氏が『頑固親父』かと問われれば必ずしも言えないのではないかと私は思うが、時に優しく時に怖い存在は一時期の理想の父親像ではなかっただろうか。もちろん物語の都合上、聖人君子たちばかりでは全く話も続かないであろうし、様々なキャラクターが相応の役割を与えられている。その中で歴史や常識を理由として叱る役割を与えられているのが波平である。

 冒頭でも書いたが、そのような叱る役割を担う人が減りつつある(というか既に大きく減ってしまった)のが現代社会ではないかと思う。減った理由についてはいろいろと想像できなくもないが、正直断言できるほどの根拠を持っている訳ではない。
 一つには、社会の多くの人が嫌われ役を演じるのを忌避し始めたというのがあるのではないか。それは同時にこうした役割が社会的に許容され続けてきたというバックボーンもあろう。すなわち、社会が歓迎しないという雰囲気を無意識に感じとり始めるからこそ、徐々にそうした行動を取る人が減少していく。
 そこには叱るという行為に許される暴力性の許容範囲が大きく狭められたことがある。別に指導の名を借りた暴力を容認するつもりはない。ただ、叱ると怒るの境界線を明確に引けないからこそ誰もがそれに臆病になり、結果としてそれを忌避する雰囲気が醸成されてしまう。
 もう一つには、思考が柔軟である方が価値が高いという社会認識が広がっていることもあるだろう。「頭が固い」と言う言葉と「頭が柔らかい」という言葉のどちらに好印象を抱くかは基本的に聞くまでもない。しかし言葉を換えれば、「意志が強い」と「流されやすい」と言う言葉にすれば評価は逆転するのではないか。
 物事には常に表と裏が存在し、それぞれ良い意味と悪い意味を持っている。必要なのは、個人としてのバランスであり、そして社会におけるバランスでもある。

 少し主題から話が逸れるが、最近では夫婦の家事分担が当然のようになりつつもあり、「イクメン」という言葉もごく普通に使われまた見かけるようになってきた。まず夫婦共働きの家庭では家事も相当に分担するのも当り前で、男性が育児を手伝うのも当然であると私も思うが、これは核家族を前提にした典型的なイメージであることも大きいだろう。
 例えば、すでに退職した両親が同居(あるいはすぐ近くに居住)しており関係が悪くなければ、育児の多くを手伝ってもらうことが可能となる。子育てや教育に対する考え方も時代とともに変化するので、その全てを任せてしまえるという訳ではないがマンパワーとしての協力や経験の提供は心強いものになるし、それに応じて育児等に掛ける時間を仕事など振り向けることもできる。
 また、男性側に一定以上の収入があり共稼ぎでなければ(パート等はあるかもしれないが)専業主婦という形を取ることも可能だ。現実には、親だからといって心を許せない(というか世代による認識ギャップが価値観の違いと相まみえて決定的な問題を引き起こす)ことも多く、はたまた一部の婚活者が恋い焦がれる専業主婦も地上の楽園ではないことは知る人は知っている。
 何が言いたいのかと言えば、個人としてのバランスもあろうが社会的な役割分担は状況により常に変化し続ける。核家族の役割分担の常識が大家族におけるそれと常に同じとは限らない。

 さて、頑固の話に戻ろう。例えば、歳を経て柔軟だということは逆に確固たる信念を持たないままに年齢を積み重ねたというケースも考えられる。言い方が正しいかどうかはわからないが、子供のままの感性で年齢のみを経てしまったという状況だ。あるいは自らが先導して決断を下すことなく人と合わせて生きてきたというケースもあろう。
 前者で言えば、一面で大人であっても子供のような興味や心を持ち続けることは理想といえなくもない。特に、芸術系などの創作活動に携わる人ではその傾向は高くなる。しかし、同時にそれは常識とか分別とかを強く身に付けないまま(体面上はあたかもそれを持っているようなフリをして)自意識のみを高めたようなケースを社会において見かけることもあるだろう。
 また、後者で言えば柔軟な人間となるが端的には周囲から優柔不断と評される人がそれに当たる。これも、いざと言う時に決断できる力と気概を持っているのであれば話は変わるが、一定の組織に属せば大きな決断を下すことが無くともつつがなく退職まで過ごすことができた。本人なりの葛藤はあろうが、こうした心理的負荷は感受性により大きく変わるため置かれた環境により全く異なる評価となりやすい。

 若者達のモラトリアムとしての自分探し、、、、というほど自由気ままではないかもしれないが、自分自身を規定せず、いや自分自身の拠り所となるものを持たない。それは、詰まるところ自らが責任を負うことを覚悟しているかどうかと言う点に尽きるのではないか。
 柔軟でいられるのは、自分以外の行動を決める(運命を決定する)場所に身を置くのではなく計画を練る場所に身を置こうとしているからではないだろうか。無論、決断者にも必要が生じればそれを覆すことができる柔軟性は求められる。ただ、それでもまず最初に決断するという修羅場を担う気概がなければその役割は果たせない。芸術において柔軟性が大きく許容されるのは、少なくとも他者の運命を直接的に左右するものではないという事実に起因する。
 そして決断者は、あらゆる批判を受け止める立場に自ら身を置くことになる。その立場に身を置いたものを軽んじる風潮や言論が広がっているからこそ、それを追い求めるものが少なくなっているのだとすれば、だからこそ敢えて『頑固親父』を目指したいなと考えるのだ。