Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

論争のための論争

 人は成長するために新しい道を踏み出す。そのことは大いに称えられるべきことではあるが、社会ではそのことによる風当たりを受けることも少なくない。その葛藤を乗り越えることが人格形成の上で大きな影響を及ぼすのだと思うのだが、子供の頃ならいざ知らず大人になってからも葛藤が続くのは苦痛でもある。
 多くの人には苦痛になるような議論を巻き起こすような仕掛けをわざと巻き起こす人がいるが、これは収入を稼ぐ上では一つの方法ではあるがその仕掛けで一発大きく稼げなければリスクに見合ったリターンを得ることは難しい。仕掛けが失敗すれば、それまで積み上げてきた信頼を失ってしまうからだ。例えば「ノストラダムスの大予言」に代表されるようなブームと呼べるようなものを作り上げるか、あるいは容易に結果の出ることがない論戦を繰り広げることである。この結果が明確に現れにくいものとしては、経済学者やエコノミスト達が繰り広げる議論がそれに当たると思う。あるいは放射能の被害予測などもそれに近い。
 一応それらしき推測は出回るのだが、経済でも人体でも容易に実験できないために、本当のところは誰にもわからないという状況である。だからこそ様々な言説が比較的自由に繰り広げられ、お互いが自己の正当性を主張する一種不毛にも見える論戦が繰り広げられる。その結果が致命的である議題ほど、ほとんど結果が出そうにもない展開での議論の応酬となりやすい。ただ、こうした不毛な議論の応酬に対して、アベノミクスは一定の結論を与えるケースとなるかも知れない。もっとも、仮に結果が出てもノストラダムスの予言の解釈が異なったと言うのと同じように新たな解釈論が登場するだけなのだろうが。

 議論を巻き起こすような言説を振りまくことは、一見新しい事へのチャレンジのようにも見えるが両者は必ずしも一致しない。そこには論争を巻き起こすことが目的なのか、あるいは真理を追求することが目的なのかという、視点の置き所に違いがあるからである。前者は先述したように大きなブームを巻き起こせれば良いという仕掛けであり、それ故に同時に容易に答えが出ないという面を利用したものであることも多い。
 こうした議論はテレビ番組などでもバラエティとして、あるいは討論として放送されることも少なくないが、お互いに自らの得意分野のみを語り相手の言説には耳を傾けない。すなわち言い合いに終始するのみである。相手の意見耳を傾けようと相手の立場になって議論しても、その面の知識などに劣ることからあまり得策でないのは誰でもわかる。だとすれば、自分のストーリーを押し通すのがもっとも容易な方法である。勝つための手段だけでなく、結論を付けないために一方通行の主張を振りかざす方が好都合というのもある。なぜなら、テレビに登場することに最も重きを置く彼らにとっては、結論を出すのはどちらにしてもメリットがない。それよりは状況を膠着しておいた方がむしろ都合が良い。テレビ的にも、コンテンツを容易に使い尽くすことは情報の浪費となり、結果的には誰もがこうしたイベントを少しでも長く続かせようとするのである。
 むろん、最初は純粋な気持ちからこうした論戦に参加する人は決して少なくない。ただ、社会に議論を巻き起こせば起こすほどに状況を維持しようという意思は多くの人を覆い尽くしてしまうのだ。

 バラエティ的にはこうした賑やかしは必要なのだろうが、これが政治や言論の世界に広がるのはあまり感心してはない。現状においてアベノミクスと揶揄される安倍政権の経済政策であるが、毎日新聞あたりからはもはや因縁を付けているとしか読み取れないような記事が日々書き起こされている。もしも本当に現在の経済政策が間違っていると思うのであれば、世界の(一部の)反応という狼の皮を使って書き立てるのではなく、筋道を立てた理知的な論争を挑んで欲しい。
社説:G20金融会議 本質曇らせた円安論争(http://mainichi.jp/opinion/news/20130217k0000m070105000c.html
 それができないとすれば、単に論争を起こすためのふっかけだとしか感じられない。