Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自画自賛

 最近、『日本は実は凄かった』という番組や書籍などが目立つようになっており、他方でこうした動きに対する批判も散見されるようになっている(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40354http://news.livedoor.com/article/detail/9418562/)。少々前のこと(2000〜2005年)ではあるが、プロジェクトX(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88X%E3%80%9C%E6%8C%91%E6%88%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%9C)というNHKの番組で終戦直後から行動成長期までの特筆すべきチャレンジを取り上げていた。そのこと自体は多くの人にとって記憶にまだ新しいところであろう(若い世代でも言葉を聞いたことがあるかもしれない)。
 上記でリンクした対談のように「日本人が馬鹿になった」というのはどうかと思うが、盲目的な賛美が良くないということもまた多くの人が理解していることではあると思う。では、なぜこのような議論が沸き起こっているかと言うことになるが、単純に世代別に保有している知識や理解が異なるということで説明できると思う。

 まず、ある面において「日本凄い」と言うのは今の日本の地位を築き上げて来た(あるいはそれを見てきた)世代にとっては言わずもがなの事実であろう。だから、わざわざ取り立てて言うことに対する違和感はあって当然かもしれない。それは日本人が持つ奥ゆかしさと相見えて黙して評価を待つような姿勢の方が素晴らしいという認識である。あるいは、行動成長期を経てその後の停滞を肌で感じている世代は、過去を賛美してもなないも始まらないと認識しているかもしれない。
 どちらにしても、過去よりは未来が大切であることに間違いはなし、未来の土台としての現在の立ち位置を正しく知ることも必要である。過去の成功を持ち出して現在を塗固しようとしても、それは自己満足以上の何物でもない。識者が語る問題点はそこにあると言って良い。

 しかし、若い世代からすれば成功の認識がそもそもないのだから、前提条件がおかしなことになる。過去の成功を単純に賛美しても未来に対する担保にならないことは誰もが知っているが、過去を正しく知り評価することに意味があるのは誰もが認めるだろう。
 若者たちは、まず過去を正しく知りたいと考え始めている。これは逆説的ではあるが、これまで教えられてきたことが正しくなかったのではないかと言う大いなる疑念に基づいている。そこで知るかつて強かった時代の日本の歴史は、その時代を体験していない者たちにとっては新鮮に受け入れられる。もちろん上述の正しくなかったのではないかと言う意識は、過去の日本を全て一方的かつ否定的に教育されてきた反動でもある(一般的には「自虐史観」と呼ばれる)。
 そこに輪をかけて、中国や韓国が歴史論争を仕掛けているのは多くの国民がウンザリする気持ちで受け止めている。もちろん、日本が戦争と言う誤りを犯したのは事実であるが、過ちとされることですら個々で見れば良い面も悪い面も持っている。隣国の神経を逆なでし続ければよいというつもりはないが、歴史は粛々と歴史家が分析すればよく政治が歴史論争に関与することは別の意図が露骨に見え隠れする。
 それでも、宣伝戦に正面切って抵抗しきれない日本の立場もあり、だからこそ国民が歴史を冷静な目で見る必要性は高い。こうした状況を「政府が弱腰」と言うことは容易ではあるが、強気一辺倒では物事は為し得ない。

 現在の若者たちは、一部でヘイトクライムなど極端な活動に身を投じるものもいるが、他方で歴史通を自称する韓国や中国な若者よりもずっとよく勉強している(一次資料を探し出して理解している)ものも少なくない。資料をきちんと勉強することで、これまで事実とされてきたことの中に理不尽な面を数多く見出しているということもある。
 これは一種の義憤と言えなくはない。その感覚が、既に様々な情報を持ち実体験として経験してきた識者たちとの根本的な違いではないか。知った上で、それでも現状が穏便な位置になるのでよいと肯定するか、あるいはそれを不当と言うか。
 確かに、一部で突出しつつある日本責任なし論(現実には「中国や韓国が言うほどには」という注釈が必要)は危うい面を持っていると私も思う。運動と言うものは、多くの場合において行き過ぎてしまう可能性を秘めており、それを危惧する気持ちが判らないわけでは無い。
 しかし、歴史を知ろうとする気持ちや日本の現在の実力を冷静に評価しようという動きを押しとどめるのもまた違う。突出したヘイトを認めるべきでないことについては私も触れてきたが、同じ線上に日本を冷静に評価しようという動きも控えている。実は、こちらは相応の(あるいは価値ある)意味を持っていると思うのだ。それを極端なヘイトとごちゃ混ぜにして(間接的に)批判するような動きには胡散臭さを感じてしまう。両者は似ていて非なるものである。

 日本人が世界に出ていくとき、一方的な相手の言説に押されるのではなく、客観的な事実を積み重ねて自らの主張を伝えることは非常に意味がある。歴史や政治に無関心であった世代が、それを意識し勉強し始めていることは日本という国の国力を高める上でマイナスにはならない。
 また理不尽に中国や韓国が振り回す歴史的虚構に対して、日本の虚構で対抗するのではなくきちんとした事実の積み重ねにより対抗することは重要である。
 要は、こうした動きが一方的な他国や他民族を排除する形で広まらないという大前提の上で、日本を無自覚に称賛するのではなく冷静に評価できるポイントを見出すことは、同時に弱点を見出すことにもなる。こうした思考を若者が行うことには意義がある。

 人は計算ではなく感情で動く生き物である。ただ人間であるからこそ、動機は感情であってもその後の行動が理知的になされるべきだと私は思う。日本を見直したいという気持ちであっても良い。あるいは中国や韓国の言い分をそのまま認めたくないという気持でも良い。それらを切っ掛けに歴史や政治に興味を持ち、正当な知識を手に入れることに社会や人間としての間違いはない。
 ただ、感情で生きる存在で会うが故に理性を感情が凌駕してしまうことが起こりがちである。そこには十分注意しなければならない。多くの場合において社会では感情が理性に勝ることを私たちは感覚的に知っている。実際、中国や韓国で行われているそれが証明している。
 ただ、同じ貉になってはならないし理性的なアプローチを常に忘れてはないならない。若者たちに訴えかけるとすれば、自画自賛を否定するのではなくそれにより突出してしまいがちな感情の奔出を抑えるべきことではないだろうか。したり顔の説教口調で正そうとしても、感情が先に立ったものに効果はない。

 最近の若者を見ると、あくまで私の個人的な感想ではあるが、持っている精神面の未成熟さと大人びた外面が同居しているように感じることも少なくない。こうした外面を守るのは正論や建前であるのだが、実はその行動原理が意外と内面にある感情に突き動かされているのではないかと思う。
 一時的な自画自賛はあっても良いと思うが、それは到着点の確認であって自分に与えるご褒美ではないことは別途認識しておく必要があるだろう。