Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

生計としての異論

 いつも印象論で勝手なことを書いているので、今回もおそらくあまり正解ではないのかも知れないが、思いつくことを書いてみたい。
 まず、現在の日本は言論の自由という意味ではかなり大幅な自由が保障されていると私は思う。反政府的な言動も基本的には許されているし、私も言論の自由がある社会は非常に素晴らしいと思う。言論の自由という意味では、通信にすら介入する中国や、親日的言動をすると逮捕されかねない韓国と比較してもかなりマシな部類だと思う。
 ただ、世界報道自由度ランキング(http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A0%B1%E9%81%93%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%BA%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0)においては日本は53位とかなり低い。これは上記で言論の自由がある程度束縛されていると私が考える韓国よりも低い順位である。記者クラブ制などの制度が理由であろうが、少々腑に落ちない感じがしなくはない。

 ともあれ、日本において多少突飛なことを言ったとしてもそれを理由に逮捕や拘束をされることはない。もちろん、他者に危害を加えたり脅迫めいた内容であればこの限りではない。そして、この言論で収入を得る人も少なからず存在する。所謂評論家と呼ばれる(自称する)人から、コメンテーターやエッセイスト、コラムニストなど呼び方はいろいろであるが批評を行う人はかなり多い。
 こうした人たちは、(1)テレビに出演し、あるいは(2)雑誌連載や本を執筆出版し、そして(3)講演などを行うことで生計を立てていると思う(詳しくまでは調べていないので印象論である)。これを成形の礎にするためには、まず有名になることが求められる。有名だからこそTVに出演し、あるいはメジャーな雑誌に執筆することができる。その結果として、本を出版しあるいは講演などを行う機会を得る。
 彼らの生計はその全てではないが、露出の程度に応じて形成される。仮に至極真っ当な正論を語ったとしても、それがメディアに取り上げられなければ彼らの存在意義は向上せず、結果として収入も増えることはない。そもそも真っ当な意見は学識経験者(大学の先生など)の方が権威的に高く、社会にも受け入れられやすい。

 すなわち、いかにインパクトのある意見を言えるかが生き残りのための方法論として正当化される。もちろん、もう一つの問題は社会から立ち位置がわかりやすいことがある。社会は変動し、問題の構図も本来変わり続ける。だから、社会に与えるべき処方箋はその時々により変化していくのが本当であろう。しかし、評論家達は自らの立ち位置を変えることは容易にできない。彼らにとっては、社会が認識している自らのポジションがもっとも使いやすいアイコンなのだ。
 無論状況に応じて変わるというアイコンがあっても良い。ただ、これは自らのメディアにおける存在価値を低めがちだ。意見をコロコロ変えるとか、あるいは日和見だというレッテルを貼られることは、自らの築き上げた信用を大きく毀損する。結果として、それはメディア登場の機会すら大きく左右しかねない。
 彼らは、自らの地位を守るために過去に築き上げてきたスタイルを大きく変えることは容易にはできないのである(自らの言説が誤りであると証明されるような時には変えるであろうが、それは容易には来ない)。

 結果として、社会に出回る言論は必要以上にバラエティに富むこととなる。自らを埋没させないためにより過激に、よりセンセーショナルなものが好まれる。過激に登場し、その後若干マイルドに修正する。露出が増えれば増えるほどにマイルドさは増して行くであろうが、それでも当初打ち立てたスタンスを変えることはそれほどできない。
 なにせ、生活がかかっているのだから気持ちは判る。ただ、メディアがそれを公平な言論の一つ一つとして取り上げることには非常に違和感がある。繰り返しになるが、制限のない自由な議論が為されることは日本という国にとっては望ましいことである。ただ、ポジショントークをかき集めることで多彩な意見として扱われることがおかしいと思うだけである。

 まあ、それもメディアという虚飾の業界における彩りだと考えれば、全てを否定する必要な無いとも思うのだが、そこには一つ重要な前提が必要である。メディア自身がそれが彩りであることをきちんと理解していると言うことだ。その境界線を曖昧にした番組を作ることで、視聴者を上手く取り込もうとしているのが現状だろうが、その欺瞞に自らが嵌ってしまっている。
 残念ながら、こうしたことへの当然の理解がないと思えるからこそ、メディア(特にTV)を通じての言論が徐々に価値を失っていっているのかも知れない。