Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

浮遊する言論

 私が左派の知識人を見ていつも感じることなのだが、現代の日本を評価(と言うか批判)しながら自分は第三者的な立ち位置を確保しようと懸命に努力しているように見えるのである。本来、批判する場合には現代日本を生み出した一員として自分も含めて考えるべきだと思うのだが、どうやら批判の対象には自分は含まれないようである。あたかも天上から見下ろしている様な、と言えばイメージも良いが、私には浮遊霊のように世間と乖離しながら漂っているように感じられてしまう。

 私がイメージとして感じるだけではなく、実際に彼らは日本と言う国の意識からも浮き始めているのではないかと思う。例えば私も安倍政権の政策の全てに首肯するものではないが、多くの左派的な識者が政権をいくら否定し反対しても、時には難癖だったり愚痴とも取れる言説を吐いても、結果的に内閣の支持率は高位安定で推移している(http://www.jiji.com/news2/graphics/images/20170113j-07-w330.gif)。
 支持率の高さが、そのまま正しさを意味する訳ではないというのは理解するが、そもそも正義とか正しさというものは相対的であると考えている私からすれば、正しさと言う概念にはさほど重きを感じない。ポピュリズムと言ってしまえばまさにそうなのだろうが、感情的かつ盲目的に支持するのではなく一定の判断をもって支持することには意味があると思う。

 「左派」、「左翼」、「リベラル」、時により、あるいは自称他称により使い分けられる呼称であるが、そのどれもが今の日本では輝きを失っている。韓国のろうそくデモを優れた民主主義として持ち上げざるを得ないのは、それを為し得ないでいる自分たちへの代償行為のように哀愁を漂わせる姿に見える。実際それを嘆き、問題視するような文章も数多く生み出されている。
 例えば、内田樹氏はリベラルや左翼の活動が活性化しないかについて「死者からの負託」がないことを挙げた(http://blog.tatsuru.com/2017/01/15_1243.php)が、私にはそのように迂遠なものとは感じられない。おそらく私の理解が届かない何かがあるのだろうが、単に理想主義的過ぎて結果に至る道筋にリアリティが感じられないからだと思っている。

 現在でこそ私は保守的な立ち位置でここではいろいろな問題について書いているが、必要があればリベラルに豹変することを厭うつもりはない。多くの識者が警告しているように、本当に帝国主義的あるいは独裁的な状況の萌芽を感じ取った時は、おそらくそれに反対するだろう。そして少なくとも現時点では、まだ立場を変えるべき状況を見出してはいない。
 「節操がない」という言葉があるが、それは状況に基本的な変化が無いにも関わらず、相手に対して都合の良いことを言う場合に用いる言葉である。一方で、状況が変わったにもかかわらず考え方を変えないのを「堅物」、「石頭」と呼ぶ。そして、もっともよい姿勢は「君子豹変す」であり、状況の変化に臨機応変に対応することだと信じている。

 同じことは右派とか右翼とか、あるいは保守と呼ばれる人にも見られる現象だ。実際には、左派であろうと右派であると人により姿勢は大きく異なるため、左派だからダメ、右派だから問題と言うくくりに与したくない。あくまで現状の日本にとって最も良い方法が何であるかを問う姿勢だと思っている。
 もちろん、その現状もっとも良いというものも主義主張が変われば変化する。だからこそ議論が必要なのであって、議論を否定するようなレッテルはりなどの子供のピンポンダッシュ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5)にも似た行動を見るほどにため息が出そうになる。特に、それが国会で行われているとなれば絶望感にも似た感覚しか感じられないでいるのだ。

 まあ、何にしても多くのサイレントマジョリティが感じ取っている雰囲気や感覚と、言論者たちの語る内容のずれが大きくなった時、仮に論理的には言論者が正しかったとしても、それがどれだけの意味を持つのかを考える必要がある。正とは何か。仮にそれが理想形を表すものだったとしても、その理想形に至る現実的な道筋を示せなければ、絵に描いた餅に過ぎない。
 そして、左派言論人の言葉が力を持てなくなっている一番の理由が、一体いつになれば主張するような理想に到達できるのかと言う答えを示せていないことなのだと思う。保守系論者は、どちらかといえば現状に近い現実的な道を示す人が多い様に思っている。もちろん私自身トンデモだと思う論者も見かける。目立てばよいという感じで極端なことをいう声があるのは間違いないが、それは左派言論と同じように大きな力を持つには至っていない。主にオタク業界と同じように同好の士が集まっているレベルではないか。むしろ、それにシンパシーを感じるメディアの後押しを受ける左派系の方が露出は遙かに多いだろうが。

 日本がどんどんと成長してきた時期には、人々は大きな夢を抱くことができた。だからこそ、左派が主張する遠い理想を追い求めようという意見に同意できる人も多かった。だが、国としての成長に限界を感じ始めた近年は、もっと手近な成功や結果を追い求めようとする動きが顕著である。そして、だからこそそれを提示する保守系の考えが力を持ち合始めている。
 若者たちが自民党を支持する理由が分からないような話を見かけることもあるが、それが分からないということの方が大きな問題ではないか。それこそ、社会の状況が見えていないという証左であり、見えていない人が昔の感覚で社会を語ろうとも現代を生きる多くの人々の心に響くはずもない。

 正しいという言葉は、ベストと言う概念に近いように思う。確かに理想としてはベストを目指すという心構えが必要であろう。だが、現実にはベターを積み重ねていくことによりベストに少しでも近づくというのが取り得る道である。そして、左派言論はベターを語らない、もしくは語れていない。
 なぜなら、ベターをこれまで語って来たのが保守言論だから。それに同調することは、自らの言論的な死を意味すると思っているのであろう。

 私は、場末のブログで好きなことを書いているレベルであって、言論者としてのプライドなど持ち合わせていない。だからこそ書けるのかもしれないが、右だ左だなどと言う分類にはほとんど興味がないのだ。ただ、社会を俯瞰する上で識別が必要だからここでも書いているだけである。両者共に良い面も悪い面も持ち合わせている。どちらかが完璧であるということはありえないし、また時代や環境によりどちらの戦略が適当かを選び取ればよいだけのことである。
 安倍総理の政策は、実のところかなりリベラルなものを多く取り入れていると思っている。だが、左派と言うポジションに凝り固まり安住した人からすれば、彼は右翼であり軍国的な道を進んでいると定義づけ無ければ我慢ならないのであろう。
 その結果、通常リベラルであった範囲の政策まで保守的・右派的なものとして取り扱われてしまい、左派やリベラルが先鋭化してしまっている。その時、言論論争などは興味の他にあるサイレントマジョリティにはそれはどのように映るのであろうか。

 要するに、言論が現実をプレーンに認識できずに自分の頭の中で生み出した架空の存在をそれと置いている限りにおいて、言論はやはり力を持ち得ないのであろう。それは国民が悪いのではない。力を持ち得ない言論が間違ってるのである。
 インターネットにも良い面もあれば悪い面もある。全てのものはそういうものなのだ。どんな行動も製品も薬も、使い方を誤ればは悪くなることはある。適材適所が求められ、さらに使用するタイミングが何より重要である。言論の不自由さと頑なさ、その社会からの浮遊の具合をインターネットは見事に暴き出したのであろう。新聞やメディアと言う虚飾の覆いから。

(追記)
 韓国の国民世論に寄り添った政府やメディアの姿勢は、その原因が自らの誘導だという点はあろうが、ある意味では現実により追っているとも言えるかもしれない。だが、それは言論が力を持っているというよりは、むしろ扇動が成功していると言った感じに見えている。扇動合戦と言っても良い。
 そうなっている最も大きな理由は、実質的に韓国内では言論(特に親日的なもの)が抑制されていること、ならびに政府などが正しい情報(特に対日本)をなかなか明らかにしないこと等のバックボーンがあることだろう。利得を含めた冷静な判断ができていない状況にあると思っている。

 私は韓国のサイレントマジョリティは、仮に日本人からすれば反日的には見えたとしても、メディアを賑わしているほどには反日的ではないと思っている。でなければ、これほどまでに日本に来たりするはずもない。ただ、それを発言できない空気があるだけなのだ。
 その意識を組み取って、何よりも韓国を覆っている言論の不自由さを払拭できなければ、韓国の言論も真の力を持ち得ないのではないだろうか。