Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

サザンと思想

 私は自分でも保守的な思考だと自認しているが、だからと言って愛国的と呼ばれる行動を手放しで賞賛したり応援したいとも思わない。ヘイトスピーチは行うべきではないと考えているが、同時にヘイトスピーチ規制にかこつけた遠回しの言論弾圧の動きも許容したくはない。保守かリベラルかと問われれば保守に当たるのかも知れないが、自分自身は中庸を目指すことを是としている。

 さて、サザンオールスターズ桑田佳祐氏が安倍総理を揶揄(政権批判)するような言動を取ったとか、あるいは受賞した褒章をぞんざいに扱ったというニュースが流れていたが、それを糾弾するような抗議行動があったようだ(http://blogos.com/article/103243/)。
 正直言って、アーチストや知識人は権力を批判するのが商売の様なものでもあり、そのこと自体を取り上げて批判するのも馬鹿げたことだと私は思うが、こうした自由を許さない行動には非常に危うい思想が隠れている。批判している人たちは、自ら抱く正義感に突き動かされて行っているのだとは思う(賑やかしやダミーの可能性も否定しない)が、たかだか芸能人のしかも露骨ではない意見表明に対してどれほどの影響力を懸念しているのであろうか。

 おそらくではあるが、要するに示威的な行動をしたいという欲求が既に自分たちの内にあり、タイミング良くそれを行動に移すためのきっかけを見付けたためにすぎないであろう。こうした現象は、ネットにおける炎上においても全く同じとは言えないものの似た様な傾向を有している。
 要するに、様々な立場を表明したり自己主張したりもするが、保守であろうが、リベラルであろうが、はたまた左翼であろうが思想の方向性は異なれど変なコトする人は変であり、思慮深い人は思慮深い。思想的な立ち位置がどうかという違いよりも、異なる立場の人の意見を聞くことができるかどうかが最も重要なのだと思う。

 そんなこんなで思索を巡らせていると、火に油を注ぐような報道が韓国からやってきた。韓国の一番の問題は、最大の反日を進めるのがマスコミと政治家であると言うことだが、この両者がスタンスを変えない限り韓国内の状況が変わることは無いだろう。

【コラム】桑田佳祐のソウル公演(http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/01/10/2015011000953.html

 人や集団にレッテルを貼り付け全体を見ず部分のみを見ようとするのは、要するに複雑な思考をすることを避けている状況である。人にも集団にも良い面も悪い面も当然ある。保守だのリベラルだのという論争は、要するに社会において価値を認めているものの違いに過ぎない。だから、その需要資する要因とは異なる部分では意見の一致を見るのも当然である。
 また、こうした重要視する部分というのもあくまで一つの見方であって、それが森羅万象を覆い尽くす摂理であるものでもない。極端なことを言えば民主主義ですら最善ではなく最悪の中で最も増しな手法なのだから。
 今、「ネトウヨ」と呼称される集団(ここでは狭い意味に用いる)のみならず遊び半分の気軽な感覚で「こいつは朝鮮人だ」などというレッテル貼りが行われている。他方、保守的な言動をする人はすぐに「ネトウヨ」だとか「極右」と呼ばれるのだからやっていることに大差はない。
 こうした言動をする人がごく一部のうちならば「極端な人はどこにでも居るものだ」と言えるが、慣れが社会に蔓延して罪悪感が薄れてくることは決して良い傾向ではない。まさに日本で言われる韓国の反日などが、その負のスパイラルから抜け出られない状況にあるのだから。

 自分とは異なる価値観であっても、レッテル貼りにより相手の有する思考や価値観を特定の狭い範囲に決めつけ自らの思考を止めてしまうことは、別に一般の人だけでなく知識人と呼ばれる人たちやマスコミなども容易に陥る落とし穴である。それは、おそらく自分だけは冷静で特別だと無意識に感じている傲慢が為せる技なのだろうと思うが、今この文章を書いている私も同じ穴の狢であろう。
 思想というのは、連帯感や特別な立場を感じさせる興奮剤であり、使い方を誤れば麻薬ともなり得る存在だと思う。宗教も同じようなものであろうが、広くものを見るということは常に忘れないように心がけたい。