Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

読まずにヘイト

 週刊ポストの「韓国なんて要らない」特集(https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/post)に対する反対運動は、一時的に大きくなった(「韓国なんて要らない」週刊ポストの特集に作家たちから怒りの声。「今後仕事はしない」とする作家も【UPDATE】 | ハフポスト)がその後急速に終息したように見える。この特集にクレームをつけたのは、朝日新聞をはじめとする自称リベラル系メディア(田原総一朗「『週刊ポスト』炎上でも“嫌韓”が支持される理由」 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット))や識者(特に文筆業:[週刊ポスト」問題について - 内田樹の研究室)であった。韓国に対するヘイトであるという主張に基づいている。だが、問題が巻き起こった後に保守系の論者から「何が問題なのか」との批判も同様に巻き起こっている(週刊ポストの「嫌韓ヘイト」はどこが問題なのか 「国民感情」を煽っているのはだれか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン))。

 

 私は該当する週刊ポストを買って読んでいない。だから、その内容について論じることはできないが、解説するいくつかの情報から見ると、今回の週刊ポストの特集に批判が巻き起こったのは、(1)週刊ポストという発行部数がそこそこ多い週刊誌であること、(2)「韓国なんて要らない」という刺激的なタイトルが用いられていたことの2点が最大の理由ではないかと感じている。

 と言うのも、批判する文章をいくつか読んだが、その大部分は世の中に広がりつつある嫌韓的な意識に阿っている、あるいはそれにより留飲を下げているというものが多い。「週刊誌と言えど売れればよいのか?」といった体である。一方、記事の中のどの部分が具体的にヘイトに該当するかということを指摘しているものは見つけられなかった。全体的な雰囲気がヘイトであるというのだ。要するに、記事のうちで正しい部分と正しくない(あるいは妥当ではない)部分がどこなのかという線引きはされていない。

 要するに、どちらかと言えば反射的かつ感情的にに反対したと推測できる。もちろん私の勝手な思い込みに過ぎないといえなくはない。だが、今の社会の流れに反対したい人は一定数いるだろうし、そのことは否定しない。例えば、私は以前より考え方や主張には全く賛同しないものの、内田樹氏(内田樹 - Wikipedia)の書く文章を高く評価している。本当に上手い文章を書く人だと尊敬すらしている。だが、ヘイトが便利な道具として利用されているとすれば、私は反対を唱えたい。

 

 確かに、週刊ポストがつけたタイトルは刺激的であろう。だが、そんなものは多くの週刊誌やタブロイド紙が行っているうちの一つである。日刊ゲンダイ日刊ゲンダイDIGITAL)の紙面にはそんなものとは比較にならないほどの罵詈雑言が毎日のように並んでいるが、安倍政権を否定するものであれば許されるのだろうか。

 ヘイトクライムは間違いなく犯罪であるが、ヘイトそのものについては非常に判断が難しいという問題をはらんでいると考える。もちろん、ヘイトなどするべきではないというのが正論であり、原則論のみで言えば私も賛同する。ただ、ヘイトの認定を誰がどのように行うのかはかなり微妙なのだ。セクハラについても似たようなケースが想定できるが、境界線は相当に曖昧である。今回も、それがヘイトに該当するかどうかが一方的に押し付けられている。ヘイト認定が正しいかどうかは、先ほども書いたように私はすべての記事を読んでいないので判断できないが、そこを素通りして行うことには違和感を感じるのだ。

 この前にも書いたが、旭日旗問題は相手の国が不快に思えばすべてダメなのかということにつながりかねない。旭日旗をタブー視することに成功すればその次は…という可能性はいくらでも存在するではないか。相手の良心に期待できれば良い話だが、それが叶わない現実が実際に存在している。

 

 ヘイトは、感情に作用することではあるが、感情で判断してはいけない。それは論理と議論により決定されるべきだと思う。被害者になる有利さが、現在様々な場所で利用されている。もちろん可哀そうな、悲惨な被害者が数多くいることは悲しい現実であると思う。そんな中、本当に救わなければならない被害者には関心が向かわず、十分な力を持っている人たちが気に食わないからと被害者の立場を最大限行使する。これは何かおかしいとは思わないだろうか。

 ヘイトが良いか悪いかで問われれば、悪いと答えるであろう。だがそのためには、それがヘイトに該当するかは厳密に検証されなければならない。その検証を飛ばしてヘイトのレッテルを張り付ける言動は、決して理知的な行動であるとは言えない。

 従来、リベラル系の識者その博識と論理性により尊敬を集めていた。だが、最近のリベラル系識者にはそれがあまり感じられなくなっている。むしろ感情を前面に掲げながら、理知を説いている。とりあえずは、どんな意見であっても主張する権利は守り、尊敬した上で批判するという態度を見せたほうが良いのではないだろうか。その方が、社会は賛同しやすいと思うのだが。