Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

レッテルの効用

 前回のエントリでレッテル貼りは思考停止である旨の内容を書いた。現実にこれが思考停止だと気付く人は決して少なくないだろうに、それでも行為はなかなか無くならない。理由として考えられるのは、レッテル貼りは同時に相手を貶め自分の立ち位置を高みにおく(と自己認識できる)心理的作用を持っていることもあるだろう。要するに心地よいのである。

 ヘイト行動も似たような形を取っており、こちらの場合は単純に上下関係を持ち込むのではなく、犯罪等の可能性や当人とは関係ないような事情などを理由として持ち出しているケースが少なくない。特定のレッテルを貼ってしまえばややこしい個別の関係性に触れることなく糾弾できるからであろう。
 相手が悪いということで自己正当化を行い、結局のところ自分を高みに置き相手を見下げる。行動の問題点をどこかで自覚しながらも自分は悪くないと自分自身に対する防御を行っているように見える。

 そこには、自分の方が上だから(下の、あるいは悪い)相手を叩いてよいという心理があることが見て取れる。本来犯罪者の取り締まりは現行犯でない限り警察の仕事である。もちろん警察が全ての悪事を捌ける訳もなく、世の中に悪いと思える人や現象は満ち溢れているだろう。
 ただ、正当な言論で問題点を指摘するのであればいざ知らず、示威的行動や暴力行為を行うとすれば非難されるに値する。フランスのテロも、言いたいことはわからなくもないがテロ行為そのものは決して許されるものではない。他方で、政治家も含めた大連帯にも個人的には居心地の悪さを感じている面もある。
 あくまで個人的意見ではあるが、日本人は正論としてテロ行為を非難するのは良いと思うが、裏側に隠れているキリスト教圏とイスラム教圏の代理戦争に巻き込まれるのはどうかとも考えている。

 少し話が横道にそれてしまったが、原則として優位なポジションを獲得することを目的としてレッテル貼りは行われるのだと思うが、ネット上では必ずしもそうではない別の効果を狙っているようにも思える。
 レッテルは狭い範囲で考えると貼る者と貼られる者の相互的な関係性であるが、広くとらえると優位なポジションはこの二人の相対的認識だけではなく社会的な評価によっても定まる。そのためもあってか、相手の社会的評価を失墜させるためにネット上のレッテル貼りは行われている傾向が高い。

 レッテルは、双方の立ち位置を正確に知っている者にとっては理解できたり不当であったりと認識することは容易である。しかし、少し知っている程度であればレッテルであるということは認識できるため、その行為が不当に見えることもあろう。
 他方で、状況を全く知らない者からすれば不当なレッテルであるかどうかすら意識することもない。すなわち、なんとなく多くの人が言っていたり強く主張されているから信じてしまう。信じるとは言っても強い動機があるわけでは無く、なんとなくその言葉が耳に残っているという程度ではあるが、それも人の無意識に働きかけ行動を左右する。
 きちんと意識すれば判断可能なのだが、いつもいつも決断を繰り返せるほど人の精神は強固でなく、流している心の隙間にこうした言葉は忍び込む。

 もっとも、こうしたレッテル貼りを巧みに利用してきたのは独裁・専制国家であり、そしてマスメディアである。今も、数多くの根拠なきレッテル貼りは国家間の鞘当てでも当然の如く表面化している。多くの場合、こうした言葉を広げる役割はマスメディアが担う。
 レッテルは、物事を単純化したり特定の印象で全てを覆い尽くそうとする方法だ。わかりやすく単純であることが最大のメリット。その上で、自分は上から見るという自己の心情としての恍惚感をもたらす。冷静な人から見れば馬鹿げた行為にしか映らないが、一旦それを信じ込んでしまった人は容易に考えを変えることができなくなる。
 日本と韓国の歴史認識においてどこかで見てきた姿でもあろう。

 兎にも角にも、レッテルは表面的には事象や人物・国家などをわかりやすくするが、本質的には正確な認識を妨げるということで、ごく当然の結論ではあるが好ましいものではない。ただ、意識していないとそれに囚われてしまうのが難しいところである。