Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自分の正しさに懐疑的でありたい

 美人の定義が時代とともに変わり、様々なファッションが生まれては消えていくように、あるいはかつての流行が少し形を変えて復活するように、社会が受け入れるものは変化し続けている。企業経営も、立ち上げ期と安定期では全く異なった手法が適切であるだろうし、伝統についても最も重要なコアは守りつつも少しずつ新しさを取り入れて変容していく。そう、多くのものは常に変化し流転している。
 それは人間が生きているからこそ起こることだと思っている。歴史的資料が博物館に大切に収蔵された瞬間、それは人々が扱う生活の一部ではなく、展示閲覧するためのものに変化する。そして、存在は固定化され時間を止めるべく取り扱われる。そこでは、人間の存在は史料の保存状況を維持すること以外には基本的に介在しない。

 同様に、正しさというものも時間や時代と共に幾度も変化変質していく。現在正しかったことが、将来にわたって正しいという保証はどこにもない。すなわち、これまで正しいと思って行動や発信していたことも、ある時(実際には徐々に)正しくない(あるいはズレがある)と感じることも十分起こり得る。ただ、そのスパンが人間の寿命よりも内外こともあるため、個人の経験では感じ取れないこともあるというだけの事。
 ただ、私たちは科学における究極理論(https://www.amazon.co.jp/%E7%A9%B6%E6%A5%B5%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%A4%A2%E2%80%95%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B3%95%E5%89%87%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3-%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0/dp/447883007X)と同様に全てを覆う絶対的正義があると心のどこかで信じたいと考えているように見える。それは遠い理想の存在であってもだ。しかし、そんなものが見つかったという話を私は少なくとも聞いたことはない。

 そう。私たちが最も勘違いしてしまうのは、自分が感じた正しさを不動のものと信じ込んでしまうことである。それは理想と現実の混同であり、その最も極端な例が宗教的な原理主義ではないかと思う。信じた自分を決して疑わないこと。そんなことが実際の世界では、ごく普通に存在している。だが、翻って考えてみるとそれってかなり怖ろしいことではないだろうか。この世界において私たちを取り巻く状況や環境は常に変化し続けるのに、評価する指標は全く変わらない。そう考えることはとても傲慢なように私には思える。
 一方で、努力の過程(例えばスポーツや職人の修行)において疑わないことが求られるという面も聞くことがある。疑わないということは、一心不乱にそれに打ち込むということ同義。こちらは、その姿が世間から賞賛されることも多い。純粋さと技術を獲得し能力が花開くことを貴重かつ重要だと見做しているということであろう。

 さて宗教の原理主義とスポーツによる努力、どちらも疑わずに行っていることの正しさを信じるとして、両者はどこが違うのであろうか。考えてみえば明らなかのことではあるが、自分の信じることを他者に強要するかどうかに大きな違いがある。敬虔なムスリムであっても、それが原理主義者を意味する訳ではない。もちろん、キリスト教徒であろうが仏教徒であろうが、そこに違いはあるまい。
 自分の中にある何かを高めるために純粋であることが悪いのではない。そのための方法を正しいと信じることに問題は一切ないのである。だが、それを外に対して影響しようとすると話は全く変わる。スポーツにおける師匠と弟子のような閉じた関係であれば、これも十分可能性はあるだろう。両者が望んでその形が構成されているとすれば、それは個人における状況が拡大したと考えられる。もちろん、十分な判断能力がない子供を洗脳すると言ったものが含まれないのは言うまでもない。

 しかし、仮に親が子供を無理やり特定スポーツの厳しい修行として誰かに預けた時、子供はそこから脱出する自由を有していなければならないと思うし、ましてや自分以外に人間が何かに打ち込んでいないことを間違っていると見下すような状況にさせてはいけない。
 自分にとっての正しさが、既にの人に受け入れられる正しさでないのは、本来誰もが知っていることである。ところが、なぜか人は自分の正しさを広めようとするものである。それは、自分自身の正しさへの不安の裏返しなのか、あるいは功名心からなのか、はたまた野望からなのか。おそらく、ケースバイケースで明確には言い切れないだろう。

 また、正しさとは言ってもその範囲が様々である。人生の全てを賭けたような正しさから、議論の論理性に関する正しさ、そして数学の計算における正しさまで。それが含む範囲は非常に幅広い。ユークリッド幾何学における計算の正しさにはある種の絶対性があるかもしれないが、人間と言う不安定で気まぐれな存在を巡る諸問題における正しさには絶対的なものなど存在しない。
 だから、私は前提条件付きの正しさには敬意を表するが、普遍的な正しさを標榜するものに対しては猜疑心を抱いてしまう。絶対的な正しさなど存在するはずもない。そして、同じことは常に自分自身に問いかけなければならないと思っている。自分が思う正しさはどの範囲で行使できるのかと言うことについて。

 この正しさを絶対的にしてしまう最も大きな要因が、社会的な立場であろうと考える。前言を翻すことは、社会的立場を有する者にとっては自分の価値や権威を揺るがす大きな問題となるからである。特に、立場をもってして収入を得ている者にとっては致命的なこととなりかねない。故に立場を守る、それが自分の正しさを押し通す一つの根拠となり得るわけだ。
 もちろん正しさを主張するのは成功者だけには限らない。日常生活におけるわずかばかりの上下関係でも同じことは各所で繰り広げられる。小学生だって、こうしたことで喧嘩になるではないか。限定された時間、限定された状況、限定された問題の範囲内においては、確かにその正しさの主張には正当性があると思う。だが、それはあくまで限られた条件下のものであるという認識は常に必要なのだ。

 ところが、メディアを意識する時には正しさではなくインパクトをもって、正しさのバックボーンを構成しているケースを多々見かける。要するに、話題性があれば限定条件や適用範囲などを無視して誇張するというもの。専門家でもなければ、様々な理論の適用範囲を知らないケースも多いだろう。
 そこに加えて、私たちは日常より絶対的な正しさというものを恋焦がれている。それが叶わぬものだと知りつつも、敢えて溺れようとする弱い気持ちをどこかに抱いている。その上に、毎回正しさの適用範囲を確認するなどと言う面倒なことを行いたいと思う人は多くはあるまい。

 「そんなことは十分承知している」と言う人も多いだろう。実際、私もここでインパクトを狙ったようなタイトルを持ちているケースも多いし、毎回毎回私の考えている正しさは適当かと常に問い続けられているわけではない。私の主張に批判的な人も多いだろうと思う。だが、それでも正しさと言うのは立場により変化する非常に曖昧なものだという認識については、できる限り持ち続けたいと思う。
 信念を貫けるのはそれを取り巻く状況が根本的に変化しない範囲でのことであり、また儒教を生み出す要因を全て認識している場合にのみ可能である。正しさも信念の一つであるが、私たちが入手できる情報はほとんどの場合は不十分なものに過ぎない。その中で、正しさを主張し続けるのは本当に難しいことなのだと思う。私は、得た情報が変化すれば姿勢や正しさの定義を可能な限り修正していきたいと思う。