Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

心配の少ない人生

 ストレスが病気の大きな原因の一つと理解されて久しいが、豊かな生活を感じることができる大きな要因の一つとして、ストレスなき人生を送ることがあげられる。もちろん、全くストレスがない人生は人間をダメにする。一定のストレスは人間が生きていく限り必要であることも間違いない。要するに、過度のストレスを受けない生活を送ることができるかどうかが、人生の質を左右する重要な要因になるのだと思う。

 このストレスは、感覚や感情により引き起こされるため絶対的な強さだけでなく、相対的な強さが問題となる。人間は慣れにより感覚や精神の受ける負担に鈍感になることができ、すなわちストレスを最小化できる能力(システム)を保有している。このことは、同時にストレスが外的要因によりそのまま引き起こされるのではなく、外的な刺激を受け止める心による内的要因が与える影響の方が大きいことを意味している。
 極端な話、地位や名誉が与えられないことによる不満は、内因性の高いストレスに他ならない。食事にも事欠くことにより受ける肉体的なストレスは外因性のものと言えるが、現代の日本社会においてそれを原因に苦しむ人は過去と比べれば決して多くはない。多くはないからこそ、餓死や貧困を苦にしての自殺に対する同情が大きく湧き上がるという現象も生じている。言い方は悪いがそれが日常だとすれば、これは大きな社会問題ではあっても日々の解決すべき問題点とはならないのだ。

 さて、生存を脅かすような物理的ストレスが少ないからこそ、内因的なストレスが大きくクローズアップされてくる。人間は同じストレスに対しては抵抗性を持つことには先ほども触れたが、このストレスの内容が次々に変化する場合には抵抗性を確立しえないという欠点がある。これは、体内の免疫の働きとも似ているかもしれないが、病原菌による反応が強すぎなければ罹患は免疫獲得の手段ともなる。しかし、次々と異なる病原菌に襲われても既存の免疫は役に立たないし、あるいは病原菌が変化することで微妙に構成が変わっても同じである。
 さて、現代社会は情報も物も豊富な時代である。これはそれらが不足していた時代から考えると天国のような状況なのかもしれないが、同時に多くのものに接するということによって小さなストレスをため続ける時代になったのではないだろうか。その一つ一つは厳しいものではないかもしれない。しかし、花粉症のように一定の閾値を超えることで体が激しい反応を示してしまうがごとく、私たちは無意識のうちに多種多様な小さなストレスをため続けている。それがいつ発症するかはわからない。そして、一度表面に出ると回復が容易ではない不可逆的な反応を示す。

 最初に小さなストレスは人間には必要なものだと書いた。これを考えたときに、小さなストレスが数多く私たちに降りかかってもそれはプラスに働くのではないかと思った。しかし、どうもそうではないようである。ストレス抵抗は、それをストレスとして認識していなければ(解消するための行動を伴わなければ)プラス側には作用させられないのかもしれない。だとすると、多すぎるストレスの種類は私たちに防御システムを作用させる余裕を与えてくれないことになる。
 小さなストレスを数多く受ける(もちろん感知できるストレスもそれに応じて多くなる)生活を現代人は送っているが、それを無視したりあるいは鈍感な反応をできるスキルをもっている人は良い。それを無自覚なままに(あるいは自覚していながらも避けられない当然のこととして放置するがままに)溜め込んでしまうことが結果として私たちの精神に大きな負荷を与えているのではないだろうか。

 まず最初に必要なことは、私たち自身が受けているストレスを小さなものでも良いからきちんと自覚することが必要なのであろう。そして自らを誤魔化すことなく、ストレスを解消する、無視する、避けるなどの方法を組み立てていくことで、私たちの精神はそれを消化していくことができる。放置するからこそ、溜められたストレスが精神の余裕を圧迫していくことになる。
 そして、同時にストレスの認識や解消という行為自体がストレスになるという場合もあるだろう。この場合には、素直にストレスを受けにくい環境に身を置くことが求められる。それは、ある意味単調かもしれないが慣れた状態を維持し続けることである。外的にも不確定要素を極力排除する。受けるストレスを明確化すると同時に数を減らすという方法だ。
 具体的に言えば、心配事の少ない生活を送ることである。心配事とは、確定していない事柄が多く常にストレスを受け続ける状況だと思う。それを如何に排除できるかが肝要であろう。もちろん、心配事をゼロにすることなどありえない。あくまでルーチンワークに入り込むことで心配事を、厄介事に置き換えることができればそれでよい。

 こんな人生が面白いかと問われれば、個人的には否と答えるだろう。しかし、面白い人生とはストレスとの共存を可能にした人生でもある。その心構えができない、あるいはそれから逃れようと考えるのであれば、結果的には面白い人生とは対極の刺激の少ない人生となるのではないか。
 だからと言って、刺激の少ない人生が悪い人生なのかと問われるとこれも少し違うように思う。それを望めば良い人生であり、それに飽き足らなければ悪い人生と感じる。ただそれだけのことなのだ。