Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

EUと日本国憲法

 現状においてギリシャのデフォルトは不可避であるとの報道(http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM27H8R_X20C15A6MM8000/http://news.nicovideo.jp/watch/nw1665017)が、ここ数日あちこちで見られるようになった。もっとも、本当の意味でのデッドラインは既に6月初旬には越えており、デフォルトはその余剰の様なものである。また、もっと言えば数年前に行われた最初の債権放棄(http://life-hacking.net/greece-crysis/)も、デフォルトではないと言い張っているが実質的にはデフォルト以外の何物でもない。

 さて、ギリシャのデフォルトがどれほどの混乱を招くかということについては、既にかなり織り込み済みのところもあり、一時的には経済的な反応が見られようがそれほど混乱が続くことはないだろう。ギリシャとしては、ユーロを離脱してドラクマに戻ろうともEU(特にドイツ)が主張する改革と変わりない厳しさになる。
 どの道厳しいのであれば、将来的な身の丈に合った収入を得るためには観光業を考えても通貨をドラクマに戻すことは一つの手段であろう。経済的なダメージは、当然EU側も大きく受ける。これまでギリシャ(あるいはギリシャの銀行)に貸し込んできたお金は戻ってこない。
 今回も、いろいろな理屈をこねてデフォルトを実効的なものにはしないかもしれないが、EU全体が受ける衝撃は決して小さくはあるまい。

 それより何より、ポルトガルやイタリアがギリシャのようにユーロから離脱した方がメリットが高いと考えたならば、ユーロ体制が根底から崩れてしまうのではないかという懸念が不安をかきたてている。要するに、ギリシャによるダメージではなくギリシャが引き起こしかねない体制の崩壊現象を畏れているのだ。
 ギリシャが悪いというイメージが強く報道されており、確かにギリシャのこれまでの行いが正しかったとは言えないのだが、少なくとも失業率が25%になるほどまでに財政を緊縮し、年金も40%近くカットした現状ではこれ以上の改革をするというのも現実的には難しい状態にある。
 ただ、ギリシャがデフォルトしたとしてもギリシャはユーロから離脱するかもしれないが、EUから即座に脱退するわけでは無い。これが何を意味するかと言えば、デフォルトしたという負い目は残るがユーロには参加していないイギリスなどと同じポジションに移行するということである。
 すなわちギリシャの最も得をするパターンは、デフォルトにより負債をチャラにしながらも、様々なEU加盟国として受けられる可能性があるメリットを享受しようというものである。もちろん、それをドイツなどの国々が許すとは限らない。

 ただ、ユーロ離脱のシナリオはあってもEU離脱の手続きが決められていないため、離脱したかどうかはある意味主要プレイヤーであるギリシャとドイツなどの判断に委ねられることとなる。さて、EUはこれまで拡大政策を続けてきたが、ギリシャが離脱するということになればその方向性に終止符が打たれることになる。
 ギリシャEU参加が財政状況等の不正操作によって行われていたことはあろうが、それでも受け入れたという事実はユーロを強固なものにしようという狙いがあった。少数ではなく、あるべく幅広く受け入れていくことが欧州の国際的プレゼンス拡大のために重要であると考えているからであろう。
 特に、ユーロ圏の拡大は国際通貨の流通において規模拡大は何よりも大きなことである。EUという壮大な実験は、実のところドルに対抗するユーロという通貨の実験でもあった。EUの成功よりもユーロの成功の方がより重要であったため、今回ギリシャが離脱することとなったとすれば、経済的なダメージ以上に政治的なダメージが残る。

 しかし、なぜこのような駆け引きが問題となるのかを考えてみれば、問題はそれほど難しくない。要するにユーロという仕組みは維持すべき目的だったのか、それともより欧州地域を強固にするための手段であったのかということだ。
 ギリシャの参加は、当初規模拡大によるユーロの価値を高める方法であったはずだが、トラブルが生じた時に維持すべき目的と化してしまった。だから曖昧なデフォルトもどきにより生かしてきた。それを再び手段として捉えなおすためには、デフォルトは避けては通れないというものかもしれない。
 もちろんドイツにもギリシャにもそれぞれ言い分はあり、どちらの言い分にも一定の論理はある。ドイツはユーロシステムにより受けてきたドイツのメリットについての評価が低く、ギリシャはこれ間までの放漫財政に対するドイツの怒りに対して認識が浅い。
 実は私はギリシャの後にポルトガルやイタリアでもトラブルが続く場合には、ドイツがユーロから離脱するのではないかと以前から考えてきた。ドイツからすれば、一部の国に対する援助ばかりを供出する位ならユーロを維持する価値がないと考えるのではないかと考えたからである。今のところその動きが表面に現れてはいないが、動く時には一気に流れが決まるのではないかと今も考えてはいる。この行動は、結果的にドイツがユーロを手段として捉えればという条件に依存している。

 さて、全く異なる話ではあるのだが最近は安保関連法案を巡り日本でも議論が白熱している。より深い議論がなされているのであればいいのだが、多くは印象操作に終始しているというのが悲しく聞くに堪えないが、それでもこうした議論がなされることは非常に重要だと思う。
 日本人が現実に突き付けられつつある問題に対して、正面から考えようとし始めているためである。できることならこうした議論を可能な限り生産的なものとして続けてほしいと思う。
 ところで、こうした議論において最終的に問題となっているのは日本国憲法である。憲法を変えるのが正しいという意見が根強くあるのは多くの人が知っているとおりだ。ただ、日本は戦後一度もそれを変えたことが無い。システム的な問題や国民性を考えても、今後も改正することは容易ではないだろう。
 逆に言えば、憲法改正を強く主張する人の中にはできないだろうということを見越して、正論の如く主張している可能性もあるかもしれない。

 さて、ユーロの話とどこがリンクしているかなのだが、日本国憲法は目的なのか手段なのかというところが今回のエントリの論点である。憲法学者からすれば、大部分においてそれは目的である。自らの研究の根幹が大きく変動しうるものであるという状況は看過しがたいことは誰にもわかるであろう。憲法が変われば、自らがこれまで積み重ねてきた研究内容すら意味のないものとなりかねない。
 それを手段と捉えることはどう考えても容易なことではない。その場合は憲法学者ではなく、政治学者を名乗ることとなろう。

 私も、憲法は権力者を縛る歯止めとして一定の価値を担っていると思う。ただ、権力者を縛っているのは何も憲法だけではない。民主主義という体制も言論の自由という権利も、全てがそれを縛る要素として機能していると考えている。
 そして、日本は世界の中でも比較的それがうまく機能している国家だと認識している。もちろん、日本の体制が完璧だなんていうつもりはないが、少なくとも憲法が全ての歯止めの決定的なものにはなっていないと認識しているのだ。
 確かに憲法は法体系の最上位に位置するため、最も重要な存在であろう。ただ、それは国民を幸せで豊かにするという目的に対する手段として位置付けられるべきだと考えている。憲法改正に反対する人も今の憲法を守ることがそれだと言うかもしれないが、他の宗教的原理主義にも見られるようにそれそのものが神聖な目的となってしまうことは、何より民主主義として気を付けなければならないことではないかと思う。

 壊すことに必ずしも意味があるわけでは無いが、壊すことの拒否は理想を追い求める上での最大の障害かもしれない。