Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

一部研究者の傲慢な態度が研究環境を悪化させる

 様々な学会が批判の声明を出し始めた(6人任命拒否を「憂慮」 自然科学系93学会が緊急声明 [日本学術会議]:朝日新聞デジタル)。もちろん政府を批判するのが悪いとは思わないが、仰々しく扱うことで日本の研究環境はさらに悪化するのではないかと個人的には懸念を抱いている。右派の人が言うほど日本学術会議全体がが酷いものではないと思うし、一方で今回推薦が承認されなかった人たちが必ず推薦されるべきとも思わない。政権に批判的であったから承認されないというような単純な話でもないように思うが、今政府がアメリカなどと取り組んでいる戦略にそぐわないという話はあるかもしれない。そこに手を入れるための政府側の仕掛けと考えることもできる。今、米中間で生じている多くの葛藤は、デカップリングという形で進行中だ。だが、同盟国であり中国から数々の脅威を受けている日本の動きはアメリカと比べるとかなり遅い。特に、企業の中国進出はアメリカよりも遅く、学術界での中国外しは一向に進んでいない。

 アメリカに全て従わなければならないとは思わないが、中国の膨張圧力を抑えるためには一国では対処できない。だからこそ、現在オーストラリアやインドなどと連携を深めているし、まだまだ煮え切らないもののEUも少しずつ中国に対する方向に動き出している。今回の日本学術会議問題は、政治が学術界に手を入れたという話というよりはむしろ、現在の世界情勢を受けて学術界の意識を変えようとする意味の方が大きのではないか。

 

 ところで今回の件では概ね、大学でもポストを削られ続けている人文系・社会学系が強く反対しているようだ(上記の様に自然科学系も学会としては声明を出しているが、それほど強烈なものではない)。まあ、以前よりも政府(財務省)から目の敵の様にされているので、積もり積もった不満が合うことは予想できる。それは今回の問題をきっかけに噴出したと見たほうが良いのかもしれない。ただ、元研究者である静岡県知事の発言(「学問立国に泥」静岡県知事、学術会議人事を批判「首相の教養レベル露見」 - 毎日新聞)は、その傲慢な言葉が味方である学者たちを後ろから撃っている。少なくとも、社会的には大きく敵を増やしたであろうし、この運動に対し国民が敵に回る可能性を相当に高めてしまった。苦々しく聞いている研究者は多いだろう。

 もっとも、そんなことよりこの問題を機として研究環境が悪化することを大きく危惧する。日本が学術研究に支払う費用が著しく減少しているわけでないのは予算等を見れば容易に分かるが、アメリカや中国が実施している潤沢な支援からすれば見劣りするのも事実である。研究に投入されている金額の桁が異なる。社会システムの違いはあるため容易に比較できないが、元々日本の科学研究費用はアメリカと比べて少ない。日本の場合には、少ない資金で上手く結果を出してきたというイメージの方が強い。

 更に重要なことは、日本では大学が多く作られすぎて研究資金や環境が希薄化していることではないかと思う。優秀な研究者に資金を配分したいが、その他の研究者にも一定の資金配分は必要。両者を満たそうとすれば相当大きな追加資金を財政より捻出しなければならないが、そんなことが不可能なのは誰もがわかっている。予算の問題としては、大学教員の定年が65歳に延長され平均年齢が上昇したことから人件費が嵩んでいるという問題もある。ようやく最近若返りに着手しているが、高齢の教員が大きな研究成果もあげないままに居座っているケースもよく見かける。そういうのも含めて、研究のすそ野の広さという意見もあろうが、多少の効率化は図りたいものである。

 それを解決するのは非常に簡単な話だが、大学の数を減少すればよいだけ。タケノコのように乱立した大学を減らせば、一人当たりの研究者に届く資金は潤沢になる。

 

 ただ、最も懸念する点は今回の問題を政治による学術界への圧力と捉える向きが大きいことが気になっている。どう考えても、デカップリングに伴う中国外しを日本でも始めていくための一つのきっかけに過ぎない。日米の結束を乱し、中国に有利となるような活動をする人をピックアップして、その人にこれまで以上の地位や権力を与えないという取り組みと見たほうがいいのではないか。日本学術会議問題以外でも、既に科研費などで中国が関係する資金を得ているものは採択しない(あるいはそれを明示する:外国の資金協力、科研費にも開示義務 経済安保で厳格化 :日本経済新聞)という方向性が示されており、最終的には日本もデカップリングに踏み出すことになるだろう。

 とすれば、学術界はこうした世界の潮流を踏まえたうえでどのように取り組むかについて方策を考えなければならない。ここで正論とばかりに「中国とも話し合いながらうまくやるべきだ」などと叫んでみても、ほとんど意味がないことはわかるであろう。その意図をくみ取れずに政府に敵対しても、おそらく資金を絶たれるという形で干上がらせられるだけではないか。これは結局、外部との激しい競争がある中で社内紛争しているようなものである。さらには、自尊心を満たすための社内競争にライバル会社を引っ張りこんでいることにもなりかねない。

 

 政府に説明責任があるのは言うまでもないが、個別の人事について答えないのはこれまでも当然のように行われてきた。クビの理由をいちいち詳細に説明したりはしない。こうした行政措置に対し論争してもよいし、裁判にまで持ち込むのも自由である。私は与するつもりはないが、やりたければやればよい。ただ、政治家の資質や人格を貶めるような言動、あるいは政治家を見下すような傲慢な言動を一部の学者が行うほどに、学術界に対する世間の視線は悪化していく。これは学問の自由の問題ではなく、政治と学術の間における政治闘争である。そんなものを国民は期待していないし、時間が経過するほどに学術界が傲慢に見えるほどに敗北に追い込まれていくのである。

 学者の給与が飛びぬけて高い訳でもないし、自由に使えるお金がほとんどないのも知っている。だが、それでも世間からすれば学術界は好きな研究に打ち込めるという意味で特別な地位にあると考えられている。その成果は、政治闘争ではなく学術成果で社会に返すべきものである。国民が持つにいたる冷ややかな視線は、将来的に学術界に今以上に厳しい要求を突きつけさせるであろう。今は、そのことを最も懸念している。