Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

建設的な議論がなぜできない

 国会の議論やSNSでの炎上覚悟のやり取りは、今のままではいずれも建設的な議論とはなりえないことは多くの国民が身に染みて理解しているだろう。国会における与党も与党だが、野党はそれに輪をかけて議論の素養がない。と言うか、そもそも建設的な議論をしようともしていない。単純に世論アピールのパフォーマンスしかしてない。だが同様のことは、日本社会に広く蔓延しているような気がしている。日本の長期的な低迷はこうした建設的な議論を行える土壌を整備できなかったことではないか。本来、議論は相手のことを認めながらも必要な問題を指摘するような関係性が理想だ。だが、相手への忖度が議論を掘り起こさなかったり、あるいは過度に攻撃的になって相手の全てを否定するようなケースがあまりにも溢れている。誰もが建設的な議論の有効性は十分に理解しているだろう。それにも関わらず、なぜ建設的な議論のためのプラットフォームが整わないのだろうか。

 建設的な議論が為されるベースには、必ず相手への敬意が必要とされる。尊敬と言う上下関係は対等な立場を阻害するので、良きライバル関係とでもいう方が妥当だろう。フランクでいならも、相手のことを認めるような関係性。理想的なものは少年漫画のライバル関係だが、それは架空の場面には存在しても実存として見かけることが非常に少ない。私の子供時代には、ガキ大将と言う形でバランスを取ってくれる裁定者がいたような感じがするが、今はこうした中立的な判断をしてくれる存在(調停者)の地位が弱まったからではないかと思うのだ。あるいはそのような立場の人たちが尊敬(それに基づく信頼)を失っていると言ってもよい。かつては、親が担い、村の長老が担い、教師が担い、専門家が担い、政府が担ってきたもの。それが大きく棄損されている。

 一つの分野の勝ち負けが人の存在としての勝ち負けを決める。例えば学歴であり、あるいは年収である。その絶対的な指標に巻き込まれると、意識しないでいようとしても上下関係が生まれ、結果的に対等な関係性が崩れる。あるいは、当初より対等な関係など望まず、如何にマウントを取り自分に都合の良い結果に導くのかが目的となる。小さな優越感が全てを凌駕する。

 

 裁定者の話に戻ろう。個別に考えれば、今でも尊敬に値する人は数多くいる。だが、一定の社会的な立場を得てしまうと、優しさのある攻撃性を発揮することが難しくなりやすい。詰問するのではなく、改善を促すための意見が相手の精神にダメージを与えることを恐れ始める。あるいは心に深く踏み込むことを恐れるようになった。それを大人の処世術と呼ぶこともできるが、処世術なしで付き合える友人が少なくなっているのかもしれない。忌憚なき関係が大きく減少しているのかもしれない。相手の懐に飛び込む勇気を、私たちは徐々に失い続けてきたのではないか。あるいは、それを回避することを子供のころから教え続けてきたとも言える。これが会社の同僚や先輩後輩、あるいは学校の友人関係に広がっている。ウエットな関係が忌避され、ライトでドライな関係が好まれる。そこには、人を近づけないことにより自分を少しでも守ろうという意識が垣間見える。

 個人的にはポリティカルコレクトネスの広がりが、その一要因たるハードルとして存在しているようにも思うが、それだけではないだろう。むしろ、ポリティカルコレクトネスが原因ではなく、私たちの社会環境が変化した結果として現れているのではないかと感じている。

 

 私はこうした流れに至った一つの答えを、社会における間違った優しさの広がりに求めたい。例えば、多様性を謳いながら真の意味での多様性を認めない社会。存在としての多様性は保護されるが、それは存在として対等な関係ではない。自立ではなく庇護と甘えを優先する形。常識がそのようにすり替わっており、特に日本における状況の進行は顕著である。アメリカのそれも酷い状況だと思うが、この立場が明確な分救いがあるかもしれない。

 優しさが社会的に求められるのは理解できる。自然の脅威から始まり、人権軽視の世界や戦争など人的要因による苦しさに満ちた社会を、私たちは実感としてあるいは社会知として認識している。だからこそ、優しい社会を作ろうとして努力するし、少なくとも自分が住む国の国民を豊かにしようと、他国に挑戦を仕掛ける。もちろん、受けるぐ側も守ろうとして攻撃的にならざるを得ない。

 だからこそ、多くの人たちは優しい社会を希求する。しかし、理想的なそれは容易に手に入れられるものではない。少なくともそのための環境はまだ整っていない(国内に限ればかなり充足しつつあると思うが)。そして安定した社会は不安定な社会から攻撃を受ける。結果として、世界は不安定側から常に浸食を受ける。こうした攻撃には、優しさは却って弱さとなって表れやすい。

 

 国際関係ではなくとも、国内だけでも優しさの弊害はよく見られる。学校教育における過度な平等性の追求は典型的だが、優しさを絶対的な正義とみなすことにより多くの問題が生じているように思うのだ。優しさが必要ないわけではない。だが、一方的な優しさはむしろ社会的な不満を引き起こす。絶対的な正義の皮をかぶるが故に、多くの人の密かな不満を引き起こす。

 さて、私たち日本人はこうした優しさの暴力に長年晒されてきた。結果的に、それが弱さとなってい現出しているように思う。皆が優しさに慣れてしまったために、厳しさに対しての感覚が鈍ってしまった。よくケンカの落としどころを子供たちが理解しないという話を聞くが、これも優しさの氾濫による弊害ではないかと思う。そして、議論ができないという話もその延長線上にあるのではないだろうか。

 過度な誤った優しさを常識として捉えているからこそ、バランスの良い優しさを行使できず、愛情のこもった厳しさを受け止めることもできない。同レベルではマウントの取り合いが始まり、共に成長するという共有認識すらを失ってしまった。

 全ての人がそうと言うつもりはないが、それを学びトレーニングする機会を得られないひとが増えてしまった。結果として軋轢が社会に広がり、落としどころの作り方や相手との忌憚なき関係性をあまり構築できなくなる。

 

 ここで書いたことは極論でもある。大部分の人はそれなりのバランス感覚を持ち、必要な優しさを的確に行使しようとしているだろう。ただ、お互いを高め合うような建設的な議論が活発にならない理由は、そのような関係性を積極的に生み出そうとしていない社会的な風潮にある。厳しい意見を敬意を持ち合って交わせるような関係性を、もっとどんどんと行えるプラットフォームを作るべきではないか。社会がそれを作って行くために必要な議論を建設的に行うべきではないか。

 卵が先か鶏が先かはわからない。だが、それを意識し始めることから始めるべきではないかと思う。