Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自信なき批判

よく、議論の時に相手の言葉に重ねるようにまくし立てて反論を言う人がいる。それは、相手の言論を封じ込めるには一定の効果があるが、こうした行動に出る人には多くの場合において二つの心理状態が透けて見える。
一つは、議論する時間そのものが無駄だと思っているケース。だから、早く切り上げたいが故に無理強いをしている。そもそも、議論により説得する気など全くない。
もう一つは、議論に応じながら自分に自信がないケース。自身がないからこそ、次々と言葉を発していなければいられない状態。批判を受けたくないが故に相手の言葉を遮ろうとするものである。

そして多くの場合は後者のそれが見られる。まくし立てる=自信がないのであろう。
いや、それは自分自身で考えてもそうだ。基本的に、自信がないからこそ多弁になりがちである。触れたくない部分があるから、あるいは気になる部分があるからこそ、他の言葉を氾濫させてそれを覆い隠そうとする。話題を拡散させて、論点を見えなくする。そういうことである。
そして、そんな時ほど早口になりがちだ。

もちろん、自信のプライドを傷つけられたときに相手をやり込めようと多弁になることもあるだろう。しかし、本当に自信があれば少々のことではプライドを傷つけられるような所まで至ることはない。すなわち、プライドが傷つけられて激昂するのは結局の所、無意識に弱みを感じているからではないだろうか。
本当に自信があれば、基本的には慌てる必要など無いものだと思う。性格によって多少の違いはあろうが、それでも余裕を持って対することができるもであろう。

自信がないという言い方もそうであるが、それよりは余裕がないという言い方の方が適当にも感じられる。人を説得するためには、本来余裕が必要である。まくし立てると言うことは、説得しようとしているのではなくやり込めようとしているのである。やり込めは一時的には相手の口を封じることができるが、あくまでその効果は一時的のものである。
それは、その時に言葉を紡ぎ出せなかっただけとの良いわけを相手に与えるからである。説得の場合にも同じように考えるであろうが、この場合相手の思考を自らの考え方に少しでも同調させる分効果が強い。それ故、議論の後に同じやり方での反論はしがたいものである。やり込められただけであれば、同じロジックに何かを付加するだけで再度同じ議論を仕掛けるケースが多いように思う。

私のかなり前の経験で恐縮だが、私の尊敬するある先生に勉強会の講師のお願いに伺ったときである。若手の勉強会ではあったが少々野心的なテーマについてのものであった。内容について自分なりには十分考えて計画を作ったつもりで自信を持っていたつもりである。そして、その時には若さ故の蒙昧な自信を有していた私は少々挑戦的な口調だったかもしれない。私が説明をしている間先生はにこやかにじっと私の目を見ている。そして私が全てを説明し終わった後にゆっくりと落ち着いた声でこう言われた。
「それで全てですか。」
先生の自然な態度とは裏腹に、この言葉を聞いて私はそれ以上の説明を加えることができなくなってしまった。何を言っても、全て把握された上での空回りになっているように感じてしまったのだ。論戦もせずに叶わないと思ったことはそう多くないのだが、この時ばかりは何も言えずに終わってしまった。
説得を説得たらしめることは単なる論理だけでは不足であり、それだけの経験その他のバックボーンがなければ成し得ないということをつくづく思い白さえた経験である。

ディベートという論戦は、それに意味がないとは思わない。しかし、単に相手を負かすということに特化したとして、その時の勝敗は得られたとしてもそれがその後どう続き広がるかについては保証の限りではない。本当に議論を建設的に進めるには、論理だけでなく経験と洞察力とそして胆力が必要だと思う。
そして、それが弱いと知っているからこそ人は言葉でその思いを封じ込めようとするのだろう。

「TVでも国会でも、議論に深みがないのが悲しいものである。」