Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

体罰

 少し旧聞にはなるが、日本を代表するトランぺッターの日野皓正氏が中学生の悪ふざけにビンタを用いたことが少々議論(http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/04/why-it-is-wrong_a_23196624/http://rocketnews24.com/2017/08/31/948815/)となっていた。私は積極的な体罰容認派ではないし、自分だけでなく人様の子供たちにも用いたことはない。だが、それでも時と場所と相手によっては必要なケースがあるとは考えている。人間関係とはhン等に様々なパターンがあり、全てが理想通りに行く訳がない。体罰を用いない方が良いという考えには賛同するが、それと体罰を一切なくすというのは同じではないという認識を持つべきだと思う。体罰をすべて悪とするのは、いじめ根絶やヤクザ撲滅、あるいは北朝鮮と全て話し合いで問題を解決しよう、というのと同じくらい夢見がちでお花畑な考え方だと私は考える。

 社会では常識の通じない人間が少数ではあるが存在する。特に学生の場合には、相手が多くの人が賛同する常識を対象が弁えているか否かという観点が問題となる。それを体罰を用いずに理解させるのが重要であることはそのとおりだ。野生動物が自衛のためあるいは食糧確保のために人間を襲うケースを考えよう。その時、動物保護のために人は武器を持たずに接するべきなのだろうか。武器による威嚇をすることで不用意な接触を招かないようにするのも有効な対処法であると考える人は多いだろう。当然、相手が動物と人間では状況が異なると言われそうだが、同じ認識や理解を持たないとなればそれを認識させるまでの間(あくまで限定的)は何らかのショック療法を必要とするときもある。

 体罰をそのように上手く利用できるのかという別の問題もあるが、結局罰せられないと考えるからこそ付け上がる存在は世の中には少なくない。話してわからせるというのは、ある意味非常に高等な技術であり詐欺師や扇動者にも近い力を付けなければ、解らない者を会話だけで誘導できる訳ではない。つい最近も福岡で学生が講師を足蹴にしたという事件があり、関係した学生が逮捕されていた。
 逮捕そのものは直接的な体罰ではないが、社会的に言えば体罰以上の罰に該当する。個人的な印象では、体罰という暴力は認めないが逮捕というより強力な罰則は認める。世の中で一定以上の力を有する体罰排除論者の動きはそのように読み解ける。

 話を少し変えよう。さて、教育や躾において「怒る」のではなく「叱る」べきであるという言葉は良く耳にする。私自身そう思うし、そうすべくやってきたつもりである。だが、ゲリラに対して騎士道や武士道が映画のように勝てないのが実際であり、自分を縛るルールや制限が多いほどに勝負には負けやすい。漫画や小説ではそれを覆すことが爽快さを生み出す要因となるが、そう甘くないことは誰もが知っているであろう。だからこそ、人は社会の中にルールと集団による強制力(法とそれを執行する警察権力や軍隊)を設置するのである。

 常識は一つのルールであり、その規範が有効に機能している場合においては、体罰を用いることなく説得することが可能であろう。だが、その規範を明らかに逸脱しているのではないかと思われるケースは少なくない。あるいは、規範そのものをきちんと理解・認識していないということもある。体罰をしなくて良い社会が理想であるのは言うまでもないが、そのためにはそれを有効足らしめる共通認識・理解が無ければならない。ルールから逸脱すればするほどに、言葉だけでは説得できない状態になっていく。
 大人社会でも、実はこうしたルールが通用しない人たちに対しては、なるべく接触しない・近づかないという対応をして過ごしている人は多い。例えば、今回の北朝鮮の核実験やICBM発射についても、「お金を渡して日本を攻撃しないようにしてもらおう」とか「相手のことも考えよう」など、北朝鮮の行動を容認するような言論を発する人がいる。

 一つには、話し合えば必ず誰とでもわかり合えるという、実は非常に自分本位な考え方が根底にあると私は思う。確かに世界では貿易についての多くの交渉事が行われ、それは間違いなく話し合いにより行われている。だが、そこにはメリットとデメリットを交えた妥協が介在している。要するに落としどころを探るというお互いのメリットを追求する過程が存在している。
 だが、そこに譲れない一線があれば日本の調査捕鯨や、核廃絶に関する会議のように話し合いでまとまらないものはいくらでもある。お互いの文化の違いに基づく根本的な認識の差や、社会体制とうによる譲れないラインは話し合いでは分かり合えない。損得勘定により妥協が成立することはあるが、それは個人や国家における核心的な内容ではないことが多い。少なくとも北朝鮮問題が現状に及び、シールズのメンバーが北朝鮮に行き酒を組み交わして説得したという情報は聞いていない。

 私たちが考えなければならないのは、本来人々はわかり合いづらい存在であることを知るべきなのだ。その上で、解り合いづらい人たちとも上手くやっていくための方法を構築し、あるいはそのためのノウハウを蓄積していく。分かり合えるというのは、お互いの認識上の譲歩を求める行動である。だが、宗教や風習・慣習、あるいはポリシーにわたるまで、世界は人々が理想に思うほど簡単には歩み寄れない。だからこそ、その現実を認識したうえでいきなり理想に飛ぶのではなくて間を埋めていく作業が必要である。

 次に、ルールを逸脱する人は実質的には自らその状況に入っていくことの方が多いのである。周りがそこに追い込むのではなく、環境がそれを導く訳でもない。自分自身が自分に課したルールがそれを導いていく。そして無知がその状態を助長する。状況を知ろうとしないことを「由」とする。偶然許容されてきたことを自分の力だと勘違いする。
 社会はある程度までは自由な振る舞いに対して寛容である。その範囲内に留まっている分には体罰も暴力も必要とはならない。体罰反対派の人たちはこの範囲の事のみを問題としているように私は思う。だが、現実にはそれを逸脱する人が少なからず存在し、その境界線上にいることを楽しんでいたりする。モンスター〇〇などと呼称されるのは、こうした人たちではないか。そして、こうした情報を私たちが頻繁に見かけるのだとすると、社会には許容される範疇をまさに越えようとしている人が少なくはない。
 彼らを言葉で説得できると思うのであればやればよいと考えるが、私にはそんな自信はない。暴力を振るうような学生たちもほぼ同じような立ち位置にいる。それをモンスター○○と同様に切り捨てて警察等の公権力に任せるのか、まだ戻せる可能性があると思い説得以外の方法も活用するのか。

 かつて体罰を容易に振るう先生がいたことは事実である。それを肯定するつもりはない。だが、それを否定したいがために、全ての体罰を否とする風潮には個人的に反論しておきたいと思う。体罰を使わずに済むのであればそれに越したことはない。だが、使い方を誤らなければ体罰にも一定の効果があることはある。もちろんそれは一方的な暴力であってはならないが、その範囲や使い方を考えることは切り捨ててそのことを考えないよりもずっと良いのではないだろうか。
 この話を思うときに、核について一切議論しないという考え方と同じように感じてしまった。持つ持たないではなく、その怖さもきちんと理解するために議論をし、思考することを止めない。原理主義に陥らないことこそが最も理性的ではないかと思うのだ。