Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

G型L型

 少し前ではあるが、経営コンサルタント冨山和彦氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A8%E5%B1%B1%E5%92%8C%E5%BD%A6)が文部科学省有識者会議で提示したG型大学L型大学の考え方(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf)は様々な面に波紋を広げた。それに賛意を示す人は主にビジネス界や言論界に多く(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40909http://blogos.com/article/97274/)、大学側は反発(http://president.jp/articles/-/14035)といった風体であろうか(個人的に受けたイメージであり根拠はない)。
 ただ、反応が大きいということはその正誤は別としても痛いところをついているのは間違いないのではないか。そもそも少子化に対して大学の数が多すぎるという現状があり、一部の私学は公立化することで生き残ろうと動いてさえいる。大学を減らす(減大学)が具体的に語られなければならない状況で、既得権益化した大学認可を容易に取り下げることもできないのであれば、思い切ったショック療法は功罪あるのはわかった上で求められると考えても良い。

 私の感想はと言えば、冨山和彦氏の分類は大枠で理解し共感する(例示はショック療法的な極論と理解)。現在抱えている大学教育の問題点は、大学がどのような人材を輩出するのかという根本的な部分にある。各大学のアドミッションポリシー(https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC-666340)やディプロマポリシー(学位授与方針)など読む人も少ないと思うが、当たり障りのない総花的なことしか書いていないのが現状だ。各種の専門を包含すると細かく書けないのはわかるのだが、どのような人材を本当に教育により生み出していくのかは曖昧である。
 高度成長期を典型として、日本では企業が実践研究や開発を負担し人材育成も行ってきたことから、結果的に基礎研究を大学ですればよいという流れが続いてきた(主に理系に関して)。
 文系学部については正直よくわからないままに書いてしまうが、理系に求められる技術力に関する理解以外を幅広くカバーしてきた感じがある。こちらも、社会に通用する実践てきな技術等は一部の分野を除いて企業あるいは社会で学ぶのが当然と言う流れであった。それ故かどうかはわからないが、日本の大学は「入る時は難しくとも出るのは容易」というのが当たり前と認識されてきた。今では入学すら容易なところも非常に多い。
 だからと言って大学に意味がなかったとは言わない。私自身、大学生の時に今納得できるほどの勉強ができたとは思わないが、ものの考え方や行動についてはその時期に得たものは少なからずあり、現在の血肉となっていると確信できる。

 近年、超グローバル化の時代を迎え企業には余力がなくなっている。だから、大学に求められる機能はより現実的かつ実践的なものになるのはやむを得ない面がある。しかし、大学側は日本の余力により維持されてきた地位とステイタスを守ろうと汲々しているようにも見える。
 実際には、様々な改革を迫られ大学教員も昔のように余裕がないのも事実であろうが、大学が真に果たすべき役割を担っているかと言えばまだまだ不足なのかもしれない。その際たる部分は、実は専門知識ではなく物事に取り組む姿勢や方法(あるいは思考の過程)を教え込めていないことにあるのではないか。
 大学入学者の学力不足が叫ばれて久しいが、基礎的知識は物事に真剣に取り組むようになれば主体的に勉強しなければならない必須の事項になる。高校生までの間は、受験のためという歪んだ形にはなっているが、まんべんなく広い知識を身につけて自らの興味の方向を探ると共に、知識を身につけることを通じての人格形成も同時に行っているものと理解している。
 大学でも、不足する知識を補うという部分は必要になっているのかもしれないが、その先に求められるのは物事を理解し、把握し、再構築し、あるいは新しいものを生み出すための発想と、それに向き合うためにしなければならない現実を知ることではないかと私は思う。
 ぶっちゃけて言えば、たかだか大学の4年で如何ほどの役立つ知識を身につけられるかには疑問を持っている。一部の優秀な学生には可能かもしれないが、大部分においては知識を実践に当てはめて理解しなければ真の意味で理解には至らない。

 大学では、専門知識教育とそこから先の新たなもの(技術でもあり、理論でもあり、発想でもあり、システムでもある)を勝ち取る力を得るための方法論(技能)を身につけることが求められる。実は、こうした教育に関しては一分野を深く研究する人ではなく幅広い興味を持ち続ける教員の方が上手く対処できると私は思う。
 社会で求められる学生を送り出すことを大学の責務とすれば、G型、L型という極論としての分類は教育面いついては必ずしも当てはまらない。むしろ、研究面にこそこの分類が強く意識される。だから、GとLだけには分類できない世界がかなりあると認識している。
 最先端の研究を世界と張り合いながら進めるというGといった面は非常に変わりやすいし、本当にそれが担える大学の数は当然限定されるであろう。他方でLという職業訓練型の教育については現状専門学校等が担っており、大学ではそれをあまり積極的に行っていない。職業訓練を大学が行うべきなのかと言う一種プライドにも似たような考えが教員に強くあるからかもしれない。

 大学教育において、G型でもL型でも新たなものを勝ち取る力をきちんと学ぶことが重要であり、G型であるかL型であるかはその方向性に過ぎないのではないか。勝ち取ろうとする新規性において、世界と争う最先端の技術であればG型となるのはすぐわかるが、逆に新たな社会システムの提案などを世界に先駆けて行えるのもG型であり、世界をリードするような芸術を生み出す教育もG型であろう。
 L型は国内向けであり、しかし単純に職業訓練を行うというものではなく、国内においても解決すべき問題は山のように存在する。これを正しく認識把握し、それに向かって取組むための方法論を学ぶことも当然大きな意義を持つ。だから、東京大学京都大学であっても方向性がL型の分野は山ほどあろう。
 単純に技能者を大学が生み出すのではなく、専門知識を持ちながらより柔軟でかつ発想に富んだ思考を駆使できる人材を国内向けに育成していくという場所であるべきだろう。そのための練習のフィールドとしては大学の有する多彩な専門性は意味を持つ。兎にも角にも、国内基盤を強めるための人材を育てることも非常に重要であるのは間違いない。

 ただ、現状の大学がそうであるかと言えばちょっと怪しい。結局のところ、学生たちが自発的に前向きに問題を見出し、それ向けた解決を意識するようなことを教育できている大学がどれだけあるのかと言うことだろう。
 学生の意識に関わる部分でもあるので知識を教えることからでは容易に学べない。教員の姿勢や活動、社会に対する幅広い見識などに間近で学生たちが触れることでようやく伝えられる。もちろん、一心不乱に一つの研究に没頭する姿で伝えられるものもあるだろう。あるいは、社会との関わりを体験させることで学生たちに気づきを与えることもできるだろう。もちろん最先端の研究に学生を加えることで強い興味と研究意欲を湧き起こさせることもある。
 ただ、学生を卒業させるだけ(無論一通りの教育は行うし研究指導もするだろうが)の通過儀礼を取り仕切る神官の様な存在であれば、図抜けた研究成果でもなければ教員の存在意義はどうしても低くカウントされざるを得ない。

 大学の数が少なく、学生のレベルも高く、という時代であれば話も違うだろうし、また日本企業に大いなる余力が存在し企業教育がフル稼働していたとしてもストーリーは変わっただろう。ただ、昔から言われている大学は研究が主体なのか教育が主体なのかと言う話はここに大きく関係する。この問題に対する明確な結論はと言えばおそらく今も出てはない、と言うか出さないようにしている(双方が等しく重要だと語られることも多い)。
 確かに研究と教育は両方とも同じように重要であるが、おそらく大学や学部に応じて両者に与えるべきウエイトは異なるということであろう。その点に関する教員の意識と実態のミスマッチこそが是正されるべきポイントではないかと思う。多くの教員は自らの研究は重要であり学生に対する教育より上回ると考えている。これは教員の昇進に関わる事項なのでやむを得ない面もあるが、そこが足枷になっているとすればやはり問題であろう。G型L型という提案はこうした部分を見直す上でよい機会ではないかと感じており、そして大きな枠組みに視点を据えれば間違っていない。

 極論を言えば、G型は研究に主体を置き、L型は教育に主体を置けと言う簡単な問題なのだ。もちろん教育の中身に関しては上述の通り異なる意見を持つが、大学教育全体が抱えている問題の大きさを考えた時きっかけに拘っても仕方がないと考えている。
 その上で、前向きな意識を持つ向学心や探究心を持つ学生を数多く育てられない教育面での能力不足が課題とされているのではないか。これは与えられた課題やプロジェクトをやり終えたことで得られる満足感のみでは不足である。その先を積極的に求める意識の高い人材を少しでも多く社会に送り出すことが重要なのだ。ここも冨山氏が言うL型大学の教員評価とおおむね一致する(ただし卒業生の給与で評価するのが正しいかはまた別)。

 例えばではあるが、L型において地域の一般的な役割を担う「基本L型」と地域の課題解決を主体的に担う「上級L型」が、G型でも科学の先端を追い求める「SuperG型」と技術やシステムの革新を追求する「基本G型」があった方がより良いと考える。そして、学生を指導する教員が見せる形態こそ違えど、イメージではなくスキルとしての新しいものを生み出す力を獲得させなければならない。大学が専門学校や高校と異なるのはそこなのだから。