Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

保守ブーム

 時代を背景にして、様々な思想が社会の中で流行り廃れていく。現時点では言えば、どちらかと言えば保守的な思想がブームになっていると言って良い。その理由は永らく続いたマスコミ主導のリベラリズムが言い続けてきた都合の良い虚構が広まってきたことであろう。
 何度も書いていることではあるが、私は平和を強く希求するが現在の平和活動を推進する人たちを基本的に信用していない。有り体に言えば理想と現実は違う。平和を追求するために必要なのは、夢や理想ではなくリアリズムだと思う。現実を無視した願望だけで進める平和活動は、一種の原理主義であるとすら思っている。同じように環境原理主義がおり、財政再建原理主義がおり、あるいは保守原理主義もいる。

 社会において自らの言論を売って糧にしている人たちは、基本的に原理主義者が多いように見ている。それは、首尾一貫した言説の方が自らの存在感を高め業としての言論に反映させることができるからであろう。機に敏い人は自らのポリシーとは別に機敏に立場を変えることもあろうが、小物感はあったとしてもこちらの方が正直ではある。ただ、真に言論に身を置きリードしていくつもりであれば、社会の反応を窺って立場を変えるのではなく境そのものを分析して変えるべきである。朝令暮改は必ずしも悪いことではない。
 決断に至る判断が曖昧なままに態度を豹変させることは最もしてはならないことではあるが、その次にしてはならないのは自らの立場や過去の言動(あるいは成功)に囚われて態度や判断を変えられないことである。理想は、周囲の言動ではなく事象に応じて最適な方法論を生み出し続ける(探し続ける)ことである。
 まあ、私自身それを実践できているとは更々思わない訳ではあるが、できる限りそれに近づきたいと思っている。時においては社会の大勢と真っ向から対立するし、また社会と同調することもある。迎合ではなく、原理に溺れるのでもなく、唯一社会と向き合い続けることの中に自らの真実を追い求めることであろう。

 多くのマスコミに登場する識者は、言論を生活の糧(あるいは地位向上の手段)としている。私は基本的に左派論客にはシンパシーを感じないが、それと同じくらい極端な保守論客にも賛同できない。中国や韓国の圧力をネットやメディアを通じて知ることで日本国民の意識がかなり変わってきたとは感じるが、それに乗じて保守論客がどんどんと増加している様に見える。もちろんこれまでマスコミ的に取り上げにくかった者達が登場してきたとも言えるが、それを糧とするのであればより極論を発し、自らの露出度を高めようとするものも増える。
 結局、保守もリベラルも同じ穴の狢なのだなと考えるのは溜息ばかりが出がちになるが、できることならその中で真摯な言葉を出し続ける人の声を探り続けたいとは思う。

 とは言え、私自身は部外者の立場が心地よいため言論界の多くの本を読んでいる訳でもなく(むしろあまり読んでいない)、言論の戦場に身を置くこともなく気軽な立場で好きなことを書き殴っているだけなのは重々承知している。その者の言葉にいかほどの重みもないことは知った上で、それでも社会の一端に書き記しておきたい。
 結局、皆が考える幸せとは何なのだろうか?最後はそこに繋がる。幸せは結果により得られるのか、過程において得られるのか。まだ読了してはいないが「矢野和男:データの見えざる手(http://www.amazon.co.jp/dp/4794220685/)」にその一端を垣間見ることができるヒントを見いだせるかも知れないと感じている。
 そこでは、過程にこそ私達が幸せ(書中では「ハピネス」)を実感できる要素が散りばめられていることをデータ結果より導き出している。この書籍が全てを言い表していると結論づけることはできないが、それでも結果は概ね私達が感じとっている部分とマッチする。モチベーション付けには成果(の夢や希望)を利用しながら、実のところ私達は過程こそに生き甲斐を見いだしているという点において。

 いきなり極論に結びつけることには自分自身でも抵抗はあるが、保守とかリベラルとか、あるいは極端なことを言えば革命戦士であろうが右翼であろうが、結局のところ自らが謳う理想に溺れているのではなく、現在活動する自分に溺れようとする。これは人間自身が幸せ(私はむしろ「快適」の方が近いと思うが)から逃げられない存在であるからだろう。
 言論に身を捧げるのも同じ、そして有名になり自らの価値を上げようとすることも同じ。私自身、同じ穴の狢の一匹である。ただ、その中で何か違いを見いだすとすればブレないことではなく、何に対して誠実かを見抜くことかも知れない。そんなことができるのかと問われれば、正直言ってよくわからないし、おそらく無理であろう。ただ、何となく眺め続けていると朧気には感じられる気がしている。
 そう言う意味で、社会は全体として愚かであるがそれと同じくらい適当を知っている。

 保守ブームも、過度にそれに寄りかかることなく一つの流行病として少し距離をとて見ておきたくなった今日この頃である。