Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

後妻業

 別に最近急に世の中が暗くなったわけでは無いし、これからの見立てもそれほど悲観すべき状態にあるとは思わないが、よからぬニュースが続くと気分も滅入りそうになる。
 昔から保険金殺人と言うものは幾度も報道されてきたし、嫌な話ではあるが人間社会の持つ影の面が見事に表れている事件とも言える。単発だからと言って許されるわけではないが、それを職業として捉える人が少なからずいることについてはあまり考えたくない現実でもある。しかし、まさにそのことを捉えた直木賞作家の黒川博行氏の後妻業という小説(http://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E5%A6%BB%E6%A5%AD-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E5%8D%9A%E8%A1%8C/dp/4163900888)が人気を呼んでいる。折りしも、その内容に酷似した犯罪容疑が話題になったということも輪をかけているのであろう(http://diamond.jp/articles/-/63013)。

 過去にも、証拠こそないがそれが疑われるような状況は少なからずあったであろうと推測できる。噂話としてはスクープ好きには丁度良い刺激になるのかもしれないが、現実にそれがあるとすればまさに殺人に他ならない。財産目当ての結婚と後ろ指を指されるような状況があったとしても、個人的には死に行く人が幸せを感じていればそれも良いではないかとしばしば思考を巡らせる。夫婦関係が仮に虚構の上に形作られた愛情と献身により構成されていたとしてもである。
 しかし、これが計画的な殺人により形成されているとすれば当然看過できるものではない。本来優劣をつけるべきものではないだろうが、犯罪と言う側面で考えれば結婚詐欺の上前を撥ねる恐るべき方法だと思う。本人にとっては殺人と言う意識は薄いかもしれないが、依頼者が自分自身である殺し屋家業と言っても良い。

 こうしたことが問題になるのは、そこに日本における老人の死に際を誰が看取るのかと言う隠された社会問題があるからだろう。「隠された」と書いたが正確には「見えているけど見たくない現実」と言い換えても良いかもしれない。これは繰り返し書いていることでもあるが、日本という国は高齢者を敬うふりをしながら阻害している。この阻害が、高齢者の社会的浮遊を生み出し始めている。
 もちろん、全ての高齢者がそういう状態にあるわけでは無い。ただ、以下の大黒柱が稼ぎ大きな家族を養うというスタイルがほぼ崩れさった現在において、高齢者はお荷物となり始めているのである。ただ、現状では高齢者群が資産を有しており高齢者群の投票行動で政治の勢力図が決まる。あるいは社会の決定的な権利を有している地位も高齢者の誰かが握っている。
 扶養・庇護される存在ではなく、むしろ疎まれる状況が広く考えた場合に生まれているのではないだろうか。だからこそ、オレオレ詐欺(振り込め詐欺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E3%82%8A%E8%BE%BC%E3%82%81%E8%A9%90%E6%AC%BA)は良いカモとして狙いを定め、投資詐欺が話し相手のように心の隅に忍び込み、あるいは後妻業が弱った心に付け込んでくる。

 どの犯罪も愛情に飢えた高齢者の存在が無ければ成立しない。その中で結果としてお金を持っている高齢者が狙い撃ちにされる。実は、権力を有した高齢者ではなくむしろ寂しい高齢者が身代わりに狙われている。弱肉強食と言えばそれまでかも知れないが、私たちが理想とする社会がそんな姿をしているとは考えたくもない。
 高齢者の愛情はどこに求めるべきなのであろうか?

 ニュースでは年金が常に話題の中心にある。高齢者の貧困問題が、生活保護と相見えて様々な議論が生じている(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141202-00000094-jij-pol)。一方で、外国人に対する生活保護を廃止すべきとする声も根強い(http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141016/dms1410161550006-n1.htm)。裁判所での判断は既に日本人に限ることになっているので、地方自治体の裁量でのみ支給されているのが現状だ。
 ここでは生活保護がメインのテーマではないのでこれ以上触れないが、貧困問題は非常にわかりやすいためにニュースとして容易に取り上げられ、そこに乗じて名前を売ろうとする人が参戦している。しかし、私は高齢問題の根本は寂しさにあるのではないかと思う。
 高齢者が楽隠居して悠々自適に暮らすという典型的なモデルは、実のところ虚構ではないかと考えている。もちろんお金に余裕があった方が良いのは言うまでもない。ただ、収入がなくなった時には仮に一定の資産があったとしても容易にどんどんと使えるものでもない。
 夫婦公務員で十分な年金があるとか、代々の資産を保有しており収入が途絶えることがないなどというレアなケースのみが悠々自適を演出できる。だが、逆に言えばそれ以外の多くのケースでは仮に一定の資産を保有していたとしても、心に余裕を抱くことが難しい。特に、独り身であるケースほどその問題は切実になっていく。

 日本は無宗教の国だと言われることがある。現実には完全な無宗教とは言えないと思うが、西洋的な一神教でないことは間違いないであろう。そこには多くの信仰対象があるが、そこには所謂現実社会と似た理想の社会が投影されている。そして、自らのポジションに近い神々に祈るのだ。
 個々に唯一の絶対的な存在にすがる訳ではなく、ある意味では自己の状態に都合の良い(特定分野を司る)神に願いを馳せる。すなわち、個が神と相対するのではなく神々の集団と社会が複雑に絡み合いながら繋がっている。私達は信仰の世界においても多くの存在に関わろうとしている。
 こうした私の認識が正しいのかどうかはわからない。ただ、個が手段を引っ張るよりも集団で強くなろうとしてきた日本社会は、一部の特異な才能の人を除き集団を感じられないと行き先を見失ってしまいがちになる。

 老いて資産を有する者にとって最も欲するものは愛情なのだろうが、愛情は品物を買うようには手に入れることができない。そのすれ違いの結末に登場するのが後妻業だとすれば、日本社会はちょっと悲しい状況にあるのだろうし、実はお金の問題よりもそれを解決した方が豊かになれるのではないだろうか。