Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

新国家観

 グローバル化という現象は、不可逆的なもののように見えるが私は必ずしもそうではないと思っている。現代において用いられるグローバル化という言葉の根本は、付随的に言われている文化交流でも相互理解でもなく実のところ経済論理に支配されている。世界を結びつけることで如何に安くものを作り、サービスを提供し、そして収益を得るかという視点である。近代における戦争で勝ち暴力的に植民地を作り上げるという露骨なスタイルではなく、ルールを決めそれに参加した国から合法的に利益を吸い上げるシステム作りであり、その点で言えばスマートというか狡猾な仕組みとなっている。ここで問題なのは、植民地経済の場合にはその主体が国家であったのだが、グローバル経済においては主体は企業であろうということがある。特に多国籍企業と言われる存在が、このグローバル化を推進する。多国籍企業と深く結びついた政府は短期的な雇用を期待してこうした企業を支援するが、これが必ずしも国民を幸せにするとは限らないのが近代社会の大きな問題と言えるだろう。

 この端的な例としては、今日本でも議論となっているTPP問題があるだろう。仮にグローバル化が国民を豊かにするのであれば、本来激しい論戦になるべきものではない。メディアなどは条件闘争の是非を主体に書き立てているし確かにそう言う側面も無い訳ではないのだが、本質的な部分でグローバル化の功罪をもう少ししっかりと考えてみるべきではないかと思う。
 まず、そもそも論としてグローバル化に功があったことは疑う余地がない。日本という国家の繁栄は、学校の授業でも学ぶように加工貿易というシステムを効率的に打ち立てたことにより成し遂げられた。もちろん、要因はそれのみではないのだがグローバル経済においてその恩恵をうまく受けることができたのは間違いない。ただ、それであればグローバル化を何処まで推し進めることが日本の利益になるとは限らないのも事実である。ものには常にバランスというものがあり、グローバル化についてもある程度までは功の面が大きいが、行きすぎれば罪の面が勝る事態も生じかねない。
 確かに一部のグローバル企業が、貿易の自由化進展により利益を受けるのは間違いないが、それが必ずしも日本国民を豊かにするとは限らない。グローバル戦線への参入は、そのオリジナリティや技術先進性が卓越していない限り大きな利益を生み出さず、世界的な競争となればなるほどに製造単価の引き下げ競争に突入する。
 すなわち、工場の海外移転が進みあるいは国内労働者の単価引き下げ圧力が続くのだ。考えてみれば当然のことではあるが、よりやすい単価の海外の労働者と同じ条件で生産可能なら勝負などできるはずもない。

 国家の安定が、国民生活の均等な向上によりもたらされると仮定するならば、過度なグローバル化はどちらかと言えばそれを阻害する。業種による勝ち組と負け組を現状以上に明確にさせるからだ。それは勝てる者たちからすればグローバル化推進は必須の事項かも知れないが、グローバル化が必要ではない者たちからすれば逆に余計なお世話と言うことになる。
 議論の中で農業が矢面に立たされているが、私は全ての産業が世界と戦わなければならないとは考えない。戦った方が良い分野とそうではない分野は国ごとに常に存在する。だからこそ、これまでの各国の貿易交渉において関税の自主権が与えられ、あるはそれを死守することが必然であった。今それを手放そうというのは世界が平和だからこそ思い至る方策であるが、今後も永遠に世界が平和であり続けるということは誰からも示されていない。むしろ、欧州の混乱は今後更に広がっていくのが必然だと見える。アメリカは財政規律の問題で世界への影響力を小さくしようと躍起である。
 だとすれば、自由貿易の前提条件たる平和は非常に心許ないものではないかと感じるのだ。平和であることは理想であり追い求めるものであるのは間違いない。しかし、理想のみを追い求めることと現実を見据えて対処することは全くの別問題である。グローバル化とは、ある特殊な状況における最適化(効率化)を追い求めている姿と映ってしまうのだ。さて、そこにおいて効率化の恩恵に浴するのは一体誰なのであろうか。
 社会は効率性の追求と共に永続性・持続性も必要としている。その持続性(サスティナビリティ)をグローバル化が担保しているようには私には思えない。理想の状態から見れば不自由で不完全な状態かも知れないが、現状の国家群が軋轢を起こしながらもバランスしている状態とは、少々の変化に耐えうる余裕を有しているように思う。グローバル化の過度な追求は、その必要な遊びの部分を削り取る作業ではないかという懸念が、現状においては私の頭を離れない。
 国家は単に共同体と言うだけでなく、その存在自体が世界を維持する上でのバッファとなっているのかもしれない。