Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

国家の生存権

グローバル化が言われる理由は、本来国家間の障害や境界を取り払うことによって交流を盛んにしようというものである。交流が盛んになればなるほどモノやサービスと共にお金が動き、それに接する人が増えるため豊かになっていく。そこには、物や人の移動を大きくしていこうという考えが存在している。
ただ、グローバル化が理想的に進むためにはいくつかの条件が存在する。まずはお互いにないもの同士を上手く補完できる事。同じモノを競争する事もサービスの向上にはつながるが、同時に過当競争に陥る事も懸念される。独占は困るが、共倒れも困るのである。
もう一つ、自由化が進めば進むほどに経済的格差が少ない事が望まれる。しかし、現状においてそれは成立していない。多くの場所でも言われている事だが、現状のグローバル化と呼ばれるものは概ねアメリカのシステムを世界に広げる事である。それは、方法や手段の主導権を握るという事でもある。自国に有利なやり方を、世界標準として押しつける。仮に他国が時間をかけてきゃっチップしてきたときには、新たな仕組みを再び導入する。どこかで見た光景である。そう、まさしくオリンピックなどで見られるルール変更と大きくは変わらない。
世界はかつて武力により征服が繰り返され、その後経済支配力によりそれが取って代わられた。日本は第二次世界大戦後にものづくりの時代に時流に乗って大きく勢力を広げたが、それに歯止めをかけたのは欧米の基準による新たな戦略である。日本のバブル崩壊は、確かに日本の至らないところも数々あったであろう。ただ、それと同時に会計基準変更などのルールの追加・変更により日本は逃げ場の少ない方向に追い込まれたのも遠因としてある。

さて、グローバル化というものは誰のために最も貢献するのかを考えてみると、私には企業活動のためという感じが最も強くしている。国際交流であるとか、情報の均質化など副次的なものはいくつも存在するだろうが、核となる部分は企業活動を後押しして利益を拡大させることが最も大きな目的であろう。それは、国家間の富の収奪戦においては企業という手駒を用いて争うわけであるから、企業の利益は国家の利益とほぼ同じであったのもおかしな話ではない。
ただし、それはグローバル化が進展する時期においてのことに限られる。グローバル化が進展してしまえば、企業の利益と国家の利益はどんどんと齟齬が大きくなっていくのだ。
国家の役割とは、基本的に国民を守るべき存在であることだ。そして国民には二種類存在する。実態としての国民と法律上の国民である法人、すなわち企業である。企業は国家間の経済戦争における強力な手駒として価値のある国民ではあるが、それは国家を豊かにすると言う同じ理想を抱いている間の蜜月に過ぎない。
企業の目的と国家の目的の間のずれが拡大すればするほど、その関係には問題点が大きく湧き上がってくる。企業の基盤が国内にある間は、企業の発展がそのまま国内経済の拡大に結びつく。企業が海外に進出してもその利益が国内に環流されれば同じでもあった。
ところがグローバル企業となれば、雇用も利益の環流も必ずしも国家に縛られる必要はないのである。企業と一体であった国家はブランド的なラベルと成り下がり、企業は国家ブランドを利用することに汗を流すようになる。その目的は企業利益の最大化であるが、それは国家経済の拡大とは必ずしも結びつかない。むしろ、企業利益の最大化は国家利益の拡大とは背を向け始める。

より安い人件費・税金で、より消費地に近い生産。これが企業活動の最適値であるとすれば、日本という国家が介在する意味はほぼ失われる。企業の義務の中に国民を救うという役割は本来無い。企業の目的と国家の目的が同じだった時代に偶然目指すものが等しかったに過ぎない。もちろんそれは精神論として今でも息づいている企業は多い。ただ、それはあくまで精神論であり幻想なのだ。
ところが、それでも企業は国家間の経済戦争の重要なコマであることに変わりない。それ故に企業の意見は国家運営に大きな影響を与え続ける。さて、国家は企業と国民のどちらを強く意識すべきなのであろうか。
かつては、企業が雇用と納税によりその成長を国家に認めさせてきた。しかし、多国籍化していく企業は雇用も納税も国家には寄与しなくなりつつある。日本企業は、ある意味でぎりぎりまでこうした世界的な潮流に対して抵抗してきたとも言える。逆に言えば、それ故に世界的な競争に打ち勝てなくなってきた部分もあるだろう。
そして今、日本企業も我慢しきれず守ってきた雇用を手放しつつある。おそらく、雇用を確保するという日本国民(法人)としての意気込みを無くした時、それによりくびきを放たれた企業は国家に納税するという面もうち捨て始めるだろう。

国家は、国民と企業という構成要員の一つを失うことになる。正確に言えば、グローバル企業と言うことではほとんどが大企業であるが。
それは、構成要員を失うという意味で国家の解体にも等しい。解体されつつある国家が企業群の統治に浴するとすれば、それは企業による統制社会に近づいている。そこでの規律は市場原理主義といっても良いかも知れない。それは、国民を守るルールではなく企業収益を守るルールとなる。
ただ、企業が十分に活動できない国はこれもまた正常な状態ではないし維持し得ない。民主主義社会において国家そのものの存在は企業無しには考えられないため、企業である法人と、国民である自然人の調和が何より問題とされる。
それを企業にやや偏重しようとするのがグローバル化ではないか。

グローバル社会における国家の意味とは何か。これを考えるにはまだまだ私の考えは不十分だと理解している。ただ、現段階で考えられるのは精神論になってしまうのだが、「企業が国家を尊重すること」と「企業が国家を過度に利用しようとしないこと」ではないかと感じている。それは、国家が国民を守るという義務を果たす上で欠くことができない条件だと感じている。
それが今後も民主主義国家が生き延びていく上で、避けては通れない大きな問題として立ちはだかるのであろう。

「グローバル企業の国民としての倫理を新しく確立する必要があるのではないだろうか。」