Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ポピュリズムと改革と

基本的な視点でもう一度日本の不況の原因を考えてみよう。ただし、これまでも繰り返し書いてきたように私が経済の専門家でないので、大きなイメージの整理だと思って欲しい。
まず、景気が悪いというのは基本的に国内に流れるお金が停滞しているためである。円の動きについて考えてみる。
wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86_%28%E9%80%9A%E8%B2%A8%29
国内流通する円の停滞には二つの状況が考えられる。

一つは、現金である円を死蔵している状況。銀行に預金している場合には、銀行が融資として貸し出しを行うためお金としては死蔵されたことにはならない(銀行が融資を渋れば死蔵となる)。高齢者のタンス預金や企業の内部留保などがこれに当たる。
もう一つは、お金を海外に投資する場合。この場合、原則として円はその国の紙幣へと交換され他国へと行くことになる。すると、相手側の保有する円が増加すればそれが日本国内へ再投資されない限り、その円は死蔵されることになる。
変な話、世界中の国々が円を保有外貨として確保しようとすれば、その分日本国内に流れる円の量は減ってしまうと言うことになる。もっとも資金を死蔵させるようなバカなマネはされずに、通常はその得た外貨を再投資する。その際には安全性が何より重要視されるため、通常は国債等で運用されることになる。この場合には流出した資金は環流する。

どちらにしても近年の不景気は資金の偏在が最も大きな理由である。少子化などを理由とする論調は日銀をはじめ少なくないが、それ以上に資金が市中に出ていないことが直接的な理由として存在する。将来不安は要因ではあるが、それは間接的なものであって直接的な理由ではない。
こうしたものは、一般的な同じ制度を長い間使い続けたことによる弊害と考えることもできる。どんな制度やシステムでも完全なものなど存在せずに、不具合や不公平は存在する。また、社会の変化により制度が上手く機能しなくなることもある。
現状の不況の原因は、社会が現状の制度に合いすぎたからこそダイナミズムを失いつつあること、そして徐々にでも変化することを恐れ始めた故の成長の停止ではないだろうか。

私達は常に安定を希求するが、実際には完全なる安定を求めると発展が阻害される。逆に、発展を希望すれば、安定の確保が困難となる。もちろん完全あるトレードオフの関係にあるわけではないが、両者は容易に両立しない。両者の共存が理想ではあるが、求めるべきはその均衡ではなくその間を適切に揺らぐ仕組みだと思う。
現状は、理想化した両者の共存を追い求めるが故に、感覚的には現実が両者ともから離れていく。
私達は常に少しずつ改革を進めていかなければならない。もっともその改革とはどのような形で行うのかについては常に議論の絶えないところであろう。あくまでイメージ論ではあるが、国民が常に幸福になる向きのそれだと考えたい。それは制度に合わせて歪んでしまった社会をフラットに戻すものだと考えた方がわかりやすい。

実際には、多くの場合改革は既得権益に阻まれて遅々として進まないものである。それは制度に合わせて利得を得ることに成功した者たちが既得権益者であり、その権利を手放さないように努力するものである。しかし、その権益が社会の歪みを固定化する。
改革は先ほども触れたように社会の平準化を目指すのだとすれば、既得権益に対して否定的な存在となるだろう。既得権益者は社会において力を有していることも多く、改革には大きな労力が必要となる。
一方で、それでは急激な改革を行えばよいのかと言えばそれも疑わしい。現状を変えなければならないが、それは社会の平準化を目指すものであって、社会の混乱を拡大するものであってはならないし、既得権益者に対する報復的なものであってもならない。
制度やシステムはそれを作った理由があり、価値がないものでは無い。あくまでそのシステムに特化したものが利益を得すぎるのを抑制しようとする程度でなければ。
ただ、社会においては緩やかな変化は支持を受けにくく、国を動かす大きな力にはなりがたいのも厳然たる事実である。それゆえに、わざと大きな変革を訴えるという一種ポピュリズムを利用した宣伝は、その問題点を理解した上で使用すると言うことはあるだろう。
ただし勘違いしてはいけないが、制度は根本的に壊してはいけない。それを上手く変えていくという修正により制度を変えていくことが何より肝要である。それは権益を手放さない既得権益者を恫喝するために使用する方法論なのだ。

大きな変革は、多くの国民を一気に不幸にする。変革をしないことは多くの国民を徐々に不幸にする。目指すべきはその中間にある徐々に行う変革である。
例えば、マスコミは民主党による民主主義システムの崩壊を見過ごし続けた。脱官僚と言ってもそれは基本的にスローガンに過ぎず、根本的な形が変わるはずもない。それをスローガンだと判って、責任を政治家が負うという本来の仕事をすれば良かったが、間違ったスローガンをそのまま実行しようとした民主党は、これまで積み上げてきた様々な方法論を滅茶苦茶にした。
すなわち、マスコミも急激な改革の弊害をきちんと理解していないか、もしくは自己の心情を通すためにあえて無視しているかなのであろう。どちらにしても報道機関としての程度が低いことはよくわかる。

私達に必要なのは、常々社会をフラット化するような改革と、同時に世界と戦える技術の進歩である。この両者は全く別物であって、改革により成長というのは基本的にまやかしに過ぎない。技術の成長とは何も科学技術だけでなく、デザインや考え方、制度など全てを含めたものである。これは制度を変えたからと言って成し遂げられるものはそう多くないし、制度の変更程度で生み出される技術など世界で戦えるものであるはずもないではないか。
技術の成長を阻害するマイナスの制度を改変することは、技術の成長を後押しすることはあってもそれを激変させるものでは無いのである。

改革とは、制度のいびつさに社会が慣れて社会の中にそのいびつさが反映された状態である。それ故に、そのいびつさを解消すると言うことは社会のフラット化を目指すものであり、社会の不公平感の解消を行うものである。
たとえばTPPでも制度を変えて農業の成長をと主張する人がいるが、制度の変更は分野の成長そのものを直接は意味しない。

「改革すれば全て良くなるはずなど無い。改革は不公平感の解消のために用いるものであり、成長のための手段は別に存在するのである。」