Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ニューローカル

 グローバルとローカルの対立がしばしば話題に上る。G型L型の大学教育の議論もそうだし、TPP(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E9%80%A3%E6%90%BA%E5%8D%94%E5%AE%9A)に対する賛成反対意見もグローバル社会に対する国家の在り様を問いかけている。私自身、少し前まではグローバルとローカルを対立要素として考えていたが、最近異なるイメージで考えるようになってきた。
 最初は、グローバルという概念はそもそもかなり曖昧な概念ではないかと感じるようになったのだ。グローバリズム(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0)は地球を一個の組織・共同体と認識するものであるが、それは同時に国家や特定の集団の力を弱めようという動きでもある。だから、グローバルとローカルは対立概念として捉えられやすい。しかし、グローバルとは称しても現実の動きは空間的には世界を股に掛けながら、専門的・分野的あるいは目的を見るとそれを標榜する人たちもバラバラではないかと思ったのだ。金融のグローバル化を目指すものと、流通のグローバル化を目指すもの、あるいは農業のグローバル化を目指すもの。国というバリアを打ち破ろうというところでは同じ方向を向いているが、それ以外は基本的に関連しない。それぞれ別の専門分野としてバラバラに活動する。現状は国の枷を取り払うという点で協調行動をしているが、仮にそれが取り払われた先を想像してみると異分野が繋がることはどれほどあるのだろうか。
 だから、私はグローバルとローカルという対立構造を考えるよりも、国家あるいは民族に依存した地縁的なローカルと、目的あるいは専門性に特化したニューローカルと呼んでも良い存在の駆け引きと考えるべきではないかと感じている。こうした概念は、地方と都市あるいは地縁集団と目的型集団として、随分前から社会変化の典型として取り上げられてきたものと似ている。
 すなわち、グローバル化というメディアが報じるイメージに囚われすぎていたのかなと感じたのだ。大きな目で見ればグローバル化礼賛勢力と反対勢力の違いは、何を守ろうとしているかに異なる似た考えを持つ集団同士の対立ではないだろうか。地縁と結びつくのは保守的で家族や地域・伝統に関する価値観を同一にする集団であり、一方で目的による結びつくのは仕事やライフスタイルを同一にする集団である。極端だが、ISIL(https://ja.wikipedia.org/wiki/ISIL)などはむしろ前者と言うよりは後者の方に近い存在ではないかとすら思う。
 現実には、両者はともにローカルな存在である。グローバルな関係と呼ばれるものも広がりは世界的かもしれないが、目的を考えると影響範囲は限定的である。ローカルの基本的な意味には地理的な制約が含まれるが、目的が限定的な場合であってもローカルな存在と扱うことは奇異ではない。だから、私はそれを仮に「ニューローカル」と呼びたい。

 地縁による旧来のローカルな存在は、土地や地域という物理的距離の影響を受けるため、そのエリアに住む人たちは何らかの形で互助的にならざるを得なかった。厳しい奴隷制度が闊歩しているのなら別かもしれないが、中世ヨーロッパですらノブレスオブリージュ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5)という形で富める貴族が弱者救済や社会貢献をしてきたのは、元来地域性故の反乱を畏れた統治手法の一つであったのではないかと思う。時間と共に、それが高潔さを示す価値を獲得していったのであろうが、地理的な制約を受けるが故の強制的な関係性が存在したことの裏返しではないだろうか。
 だが、距離の頸木を離れればその関係性は消え去ってしまう。地理的制約の範囲は文明の進歩と共に広がってきたが、それでも現在も様々なローカルが並列的にかつ離散的に存在している。それをまとめ上げているのが本来国家というものであろう。

 他方、ニューローカルは土地や地域的な制約を受けない。コミュニケーションは現代文明の恩恵を受けて遠く離れていても可能であり、必要となれば各種交通機関を利用していつでも集合できる。この集団は、すなわち集団内以外に対しては興味がないし義務を負ってもいない。そして、集団内のメンバーであっても脱落する人間をすくい上げる義務はないのである。
 ニューローカルも形式的には国家に所属するものの、グローバリゼーションを基本的に指向しおおむね国家の制約を取り払うべき活動している。国家の規制は自分たちの行動に対する障害と見做しているのだ。その目的は、自分を含めた集団の維持ではなく個としての生存本能に基づいている。それは汎用化ではなく特殊化と呼んでよい存在として、現在の環境の中での最適化を追い求めている。しかし、特殊化するほどに環境の変化には弱くなっていく。だから、彼らは環境そのものを自分たちに都合の良いように変えようと努力する。
 多国籍企業はその主要なメンバーとして知られているだろう。一企業として正面切って国家と対立することは多くないものの、自らの収益と行動の自由を獲得するために様々な働きかけをしている。日本企業はまだ十分抑制的なところも多いが、他国の有利な条件を得た企業との競争を考えると日本政府に働きかけをせざるを得ない状況はあろう。もちろん、日本企業でもグローバル思考の日本としての総体の利益ではなく企業利益のみを追求するところがあるのは気付いている人も多いだろう。節税のためにタックスヘイブンを利用しているところなどは、主たる目的として日本という国家の繁栄をどの程度考えているのかは中々に悩ましい。

 このニューローカルを個人レベルで達成している人たちもいる。金融ブローカーや資産運用者たちの中には、自分たちの収益を最大化するために税金を如何に払わないかに腐心している人もいる。パナマ文書(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8A%E3%83%9E%E6%96%87%E6%9B%B8)は、ごくごく一部かもしれないが企業や個人レベルでそうした人たちが存在することを明示した。政治家まで含まれていたことは、国家運営者であっても同じような思考の人間がいることを明らかにしている。
 彼らは、共同体としての地域・国家に対する責任や義務を回避しようとしている訳であり、国家機能の基盤を揺るがす行為をしていると私は思う。もちろん、反論のフレーズは「今さら国家に縛られる必要性があるのか?」という問いかけかもしれない。逆に言えば、ではみんながニューローカルの仕組み飛び込めばよいではないかということになるのだろう。どこかで聞いたロジックである。

 ただ、現実には多くの人たちはローカルの堅苦しさに辟易としながら安住し、ニューローカルの自由さに胸躍らせながら未知なる恐怖に足がすくむ。旧来のローカルは安心を意味し、ニューローカルは刺激を想起させているという訳だ。そして刺激は恐怖と紙一重。ニューローカルには厳然たる弱肉強食の世界である。そこに皆が踏み込めるわけではない。だが、一方でニューローカルは土地や地域を基盤としていないこともあり、多くはローカルな存在に寄生して収益を挙げているという点を見逃すわけにはいかない。
 ローカル同士あるいはニューロカル同士は近隣のそれとの棲み分けが可能だが、ローカルとニューロカルとは存在意義のレイヤが異なるため葛藤が生じやすい。

 グローバルと言う概念が広がっていることの最大の問題点は、それが人類の共生的な理想の社会を想起させることになるのではないだろうか。本来グローバル化は目的ではなく手段である。ところが、そこに理想を重ねてしまうことにより目的化してしまうことがある。そして多くのメディアはそのための無意識の共犯者となっていたように私は思う。
 ここにきての世界的な保守的指向の高まりは、その認識が正しくないと多くの人たちが気付き始めたことにある。保守主義もまた常に正しい訳ではない。だが、強い流れのグローバル化に違和感を感じた人たちは、それに流されないために取れる行動として選択したものではないだろうか。そして、グローバル化というものはそれを利用して一部の人たち(ニューローカル)のみが利益を得るための方便だと考え始めたのだ。

 翻って、日本はどんな立ち位置にいるのであろうか。アメリカやイギリスほどに金融立国に走った訳でもなく、製造業を国内に残し続けている。今でこそ韓国や中国、台湾の後塵を拝しているが、かつての重工業企業(例えば日立など)は総合企業として日々進化している。東芝やシャープの失敗もあろうが、全ての企業が崩れてしまったわけではない。完成品でなく、特殊部品やマザーマシンなどに特化しながらも、生産施設を維持し続けている。
 確かに、コスト勝負に負けないために生産拠点を海外に動かした企業も多いが、それはグローバル化を積極的に活用しようというものよりは、状況に応じて受動的に取り組んできた結果ではないか。もちろん、それが上手く行くときもあれば不利益に働くときもあろう。だが、壊滅的なほど消え去るという状況にはなっていない。伝統的な日本企業は、まだそこまでグローバル指向ではない(ローカルに依存している)と私は考える。
 だからこそ、最も成功した社会主義と称賛されるような状況にあるのだと思う。日本として、足りない部分もいろいろあるだろうし、あらゆる分野で日々改善していかないといけない状況にあるのは間違いない。だが、それは土台として、人の存在を感じられるリアルさとしてのローカルを維持するということから始めるとすれば、現状の日本は特化により最大限の合理化を図っているわけではないが、意外とサスティナブルな能力を維持し続けているのではないだろうか。