Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

メディア権力の衰退

 朝日新聞の報道が再び迷走している。従軍慰安婦誤報を謝罪し、世の中ではバランスの取れた報道に戻るかもしれないという一抹の期待はあったかもしれないが、残念ながら過去の成功体験を断ち切れない様である。彼らが求めるのはオピニオンリーダーの地位である。それを実感させる一つの形が、特定アジア国家の感情(実際には戦略)を利用した政治家の役職剥奪権であった。だが、それは現代ではほとんど機能しなくなった。受験のための天声人語も今は昔。
 一時期は、韓国や中国が大きく騒ぐことで政治家の発言を抑制・誘導し、加えて責任あるポストを辞職させるような権力を新聞社を中心としたメディアは有していた。オピニオンリーダーだったから多くの国民がその意見を尊重したのか、あるいは多くの国民が朝日新聞の主張を妥当と思ったからオピニオンリーダー的な立場に立ちえたのかは不明である。だがそんなことはどうでも良い。どちらにしても世の中の動きとして、ほんの10〜20年前にはそんな風潮が当たり前であった。

 本来、メディアが政治を監視することには大きな意義があると私も思う。監視されない政治は容易に腐敗する。それは中国や韓国を見ていればよくわかるではないか。だが、韓国の蝋燭デモを権力(今回は政府)に対する監視と告発として立派な民主主義などと賛美するというようなことには間違っても賛同しない。あれはあくまで大規模な感情の発露であって、政治の腐敗を正す公衆の動きと言うよりはルサンチマンを解消する大衆の行動に見える。だからこそ、北朝鮮等の策動が揶揄される訳でもある。
 本当に重要なメディアの役割は、権力の欺瞞を白日の下に晒すことである。だが、その権力とはいったい誰のことであるのだろうか。容易に思いつくのは政府であり、それを指揮する政治家である。だが、権力とはそれだけではない。大きなところでは政策すら動かす大企業であり、小さなところでは学校の先生も一定の範囲に限定されるものの強い権力を有している。そして、メディア自身が大きな力を有している。

 問題は権力を持っていることではなく、権力が濫用されることにある。この「濫用」という言葉が実のところ大きな問題となる。一定の主義主張を有するものからすれば、自分の意に沿わない他者の行動は権力の乱用と映り、その判断が真に正しいかどうかは濫用を訴える者が証明しなければならない。そのため、メディアはそれを国民に問うというスタイルを確立している。現実には、常に国民の判断が正しいとは言えないものの、絶対的な判断者がいない以上は次善の策としてやむを得ないと考えることができる。
 だが、そこに求められるのは濫用の妥当性を問うことまでであり、それ以上は手続き則り処分が進められるというのが本来の形であろう。ところが、韓国の例を見ればわかるように国民感情が法令や条約より先に立っているという状況がある。日本でも、一時期政治家の失言と呼称されるムーブメントがあり、多くの政治家が公職を追われた。そこで辞めるというのも日本的な村社会風の出来事ではあるが、それを利用してメディアは信じられないような魔女狩りを行ってきた時代がある。


 ところが、今の時代に同じことを発言したとしても公職を追われることは少なくなった。両者の間にはどんな違いがあるというのだろうか。確実に分かることとして、メディアの失言狩りに国民が動かされなくなったということがある。おそらくはインターネットの発達により多くの国民が玉石混淆の中からではあるが確からしい情報を認識したからであろう。要するに、サイレントマジョリティが一部の識者や外国勢力と実質的に意を同じくしたメディアの報道を信用しなくなったのである。
 そもそも権力の濫用がもっとも酷いのは、身内の不祥事をひた隠しにするメディアではないかと言う疑念が国民には湧き起こっている。また、芸能報道からもわかるように本当に強い(自分たちに経済的な害なす)存在には抵抗できないということを自ら日々証明しているではないか。

 だから、こうした流れは今後も元に戻ることはない。一時的には何らかの社会問題で世論に火が付くことはあろうが、それでもメディアは過去より積み上げてきた(実は報道により作り上げてきた)信用を大きく失った事実は回復しない(覆水盆には返らず)のである。
 ただし、それでメディアの消失にはつながらないことは、その代替機関が現状生れてはいないことにより担保されている。一部では市民記者などの動きもあったが、むしろ金を稼げない市民記者の方がよほど特定のイデオロギーに左右されやすいということを証明した。

 メディアの権力が失われつつあるのは、政治家の失言問題のみならず、視聴率や新聞購読率の低下により証明されている。メディアは本来「火をつけて人を誘導するための存在」ではない。だが、それが意識されて進行したとは考えにくいものの、人を誘導して大きな社会問題化を発生させることが目的となってしまっていた。
 それをかつては「ペンの力」などと誇らしげに呼んていたが、告発者と扇動者は同じではない。確かに現実には告発者が正しいと国民が見做せば、大きな運動が巻き起こるかもしれない。だが、その運動を巻き起こすことは本当にメディアの仕事なのだろうか。実は、その明確な区別を意識できなかったからこそ、気付けば扇動者に成り果てていたのだろうと思う。
 テレビは新聞と違う面もあろうが、多くのやらせ番組を生み出すメンタリティは同根ではないだろうか。メディア権力の衰退は、自分たちの立ち位置を過信したことから始まった。情報が限定されていた時代には気にせずとも良かったこと、それが今では生み出したパラダイスをどんどんと浸食しつつある。

 それでも、ネットはその匿名性故にメディアに替わる権力にはなり得ない。良くメディアの人たちが語るそれは事実だと私は思う。情報発信方法のみを考えれば、ネットは既存メディアの新たな住処になり得る。だが、既存メディアがかつての栄光を取り戻すことは、現状を見る限りにおいて当面ないだろう。少なくとも、過去の権力を操った記憶におぼれる世代が消えるまでは。
 そして、同じことは左派系の識者にも言えるように思うのだ。