Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自慢と卑下

 私は以前ある前任者から卑下が過ぎると良くないと忠告されたことがある。正確に言えば、卑下というよりは「謙譲が過ぎると」という意味だとは思うが、内心ではその忠告に強く反発した。関係を乱すほどの意味は感じなかったこともあり、面と向かって意見したわけではなく無視しただけである。が、その忠告が立場に応じた振る舞いをすべきであるというものであったことに強い拒否感を感じた次第だ。
 一面において、社会的立場にあった振る舞いが求められるのはよくわかる。私もその必要性は理解する。TPOは社会関係を円滑に進める上でなくてはならない。だが、その振る舞うべき姿があたかも虚勢を張れと言った類のものに聞こえたため反発した。具体的には自分が知らないことでも、その事実をもって相手に対して謙り過ぎてはいけないといった内容であったと記憶している。
 真意の捉え方が不十分であった可能性はある。だが、社会的立場の維持と人間性の問題を一緒にはしたくなかったのだ。知らないことは知らない、教えてもらえば単純にお礼を言う。素直に感謝の意を示すのは当たり前の事であり、そこで立場を理由に虚勢を張る必然性を私は認められなかった。

 別に今ここでその人のことを悪く言うつもりはない。様々な経験から見出した忠告なのだろうと思うし、そういう考え方もあるのだと勉強させていただいた。そもそも忠告による実害を一つ設けた訳ではないので、取り立ててどうと言うこともない。
 だが、一方でいろいろな人と会うと自分でなく自分の所属する組織や団体を謙譲ではなく、貶めるような発言をする人にも出会うことがある。その人からすれば組織や団体に対する諫言だと思うのだが、それが組織を強化改善するためではなく、自分の立ち位置を高める(と自己認識する)ために用いているように感じることがある。
 本当に改善するつもりがあるのであれば、諫言する前にすべきことは数多くあると思うが、こうした場合おおむね言葉だけで終わっている人が多い。

 私は、正論を言う人よりも何か実現するために行動する人の方を高く評価する。そのため、評論家と呼ばれる人はその意見を参考にはするが高く評価はしない。具体的な何か(事業でも作品でも)を産み出す難しさや困難さを知れば知るほど、多くの情報を知っていても何かを為し得ない人の言葉は響かないと思うのだ。
 それを本人に言えば、おそらく情報を如何にまとめあげ人に役立つ形にしたか、などということを語られることになるだろうが、それは整理分析であって創出・創作ではない。産み出すということは本当に大変なことなのだ。誤解を招くといけないので付け加えるが、何でも作ればよいという話をしているわけではない。当然社会的な価値を評価される、あるいは事業として成立する、そうしたものを産み出すことを対象としている。

 ネット上でこんなコラムを見かけた。
日本スゴイ」なんて自己陶酔する「この国」はアホの限界(http://mainichibooks.com/sundaymainichi/column/2017/01/22/post-1358.html
なかなか、刺激的なタイトルである。中身を読んでみたが、結局心の中に実現できない不満を抱えているのだなという感想しか抱けなかった。確かに、以前から私はメディアに対しては批判的である。大部分のメディアはその成立要件から、数多くの記事を記事を書かなければならないという宿命を負っている。それ故に、記者等の書く文章は事実の報道部分については参考にするが、それ以外の意見部分には重きを置いていないというのがある。
 判断はメディアには任せないで自分で考えたいという当たり前の行動だと思っている。同じ実を根拠にしても、多くのメディアと私自身の評価が異なるという経験も作用しているのであろう。まあ、評価は人それぞれだろうからそれについては構わない。

 さて、では日本人が日本が素晴らしいという番組を見たり、そういう書籍が多く買われるような状況は「アホ」と呼び捨てられるような状況なのだろうか。度を越したものもあるので一概には言えないが、自国の良い部分と悪い部分を客観視できるようになることは非常に好ましいのではないかと私は思う。
 むしろ、悪い部分のみを取り上げて悲観や卑下したからと言って、それはどのような意味を持つのだろうか。残念ながら、上記のコラムのライターは日本の悪いところや安倍政権の悪いところを書くことには熱心のようだが、自分自身の評価はどうなのだろうかと考えてしまう。文字制限もあり触れられなかったのかもしれないが、それにしても見事なまでの上から目線である。

 批判することが自分の役割と考えるのは、それもまた良しではあろう。だが、生産性のない批判に甘んじる人たちの価値を社会は高く評価し過ぎではないだろうか。情報を伝達し、あるいは一定の分析を行うことに対する評価はできるだろう。だが、それ以上の評価はなかなかに難しい。そして、伝える内容に大きな意味があるとすれば、社会が自然と取り上げ賞賛されることも間違いないだろう。少なくとも、こんな場末のブログよりはずっと多くの人の目に触れるのだから。
 逆に多くの批判を集めるとすれば、主義主張の違いはあるかもしれないとは思うが、自分を安全地帯において批判に終始するスタンスが見透かされているからではないだろうか。それでは人々の心を捉え動かすことなどは叶わない。自慢でも卑下でも皮肉でもない、バランスの取れた考えた意見が聞きたいものである。