Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

排除と融和の境界線

 痛ましい事件の報道が続いているが、社会全体を考えた時にこうした凶悪事件が格段に増加しているという状況ではない。戦後一貫して殺人事件は減少しており、バブル崩壊後の一時期は定常状態であったが最近は再び減少傾向にある(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2776.html)。
 どちらかといえば、報道がどんどんと過熱して膨張し私たちが受ける印象が膨れ上がっているに過ぎない。また、殺人事件として取り扱われていない行方不明者の推移も併せて考える必要があるが、こちらも総じて減少傾向にあると考えてもよさそうである(http://seesaawiki.jp/w/mikaiketsujiken/d/%A1%D6%C6%FC%CB%DC%A4%CE%B9%D4%CA%FD%C9%D4%CC%C0%BC%D4%A4%CF%CB%E8%C7%AF%A3%B1%A3%B0%CB%FC%BF%CD%A1%D7%A4%CE%BF%BF%BC%C2http://mps.or.jp/pdf/20100901.bk.pdf)

 マスコミや識者の論調は、こうした凶悪行為が社会の歪みに起因するものとしたい意図が垣間見えるが、むしろ一定以上こうした凶悪事件が減少した時に浮かび上がってくるのは、今回の柏市の事件(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140306/crm14030610200007-n1.htm)でも見えてくるイレギュラーの存在ではないだろうか。
 例えば、殺人者や性犯罪者の再犯率の高さが話題に上ることは多い(http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/57/nfm/n_57_2_7_4_1_3.html)が、これらは犯罪に対する心理的な障壁の低さが問題とされる。一般の人であれば、倫理面などにより決して起こすことがない犯罪を彼らは易々と行ってしまう。
 ただ、これは事件の悪質性では特異であっても事象としては決して特異な例ではなく、例えば人のものを盗む癖のある人や、ギャンブルにのめり込む人、あるいは浪費癖のある人も流れとしては変わらない。性格(あるいは性向)がそのようになっているのは、環境的要因も一部の理由としてあるだろうが多くは先天的な資質による。
 見方によれば、社会はあらゆる要素のイレギュラーが寄り集まって構成されていると言えなくもないが、あくまで常識的な範囲で収まっていてこそ社会において許容される。軽いイレギュラーは道徳教育により抑制することが可能であり実社会でもシステム化されているが、強烈なそれは倫理や道徳(すなわち理性)では抑えきれない。だからこそ、上記のような犯罪の再犯率が一定以上の割合で生まれてくる。
 こうしたケースに対しては、いくら状況を分析しようが社会構造との関係性を探そうがあまり意味はない。その相関性のなさがむしろ問題を複雑に虚飾する。

 仮に一定レベル以上のイレギュラーが道徳教育等のシステムにより更生不能であるとすれば、潜在的に一定の比率で出現するであろうこうした存在をどのように扱うべきかという議論が必要である。もちろん何でも排除すればよい(疑わしきは排除)という話ではないが、どこかに一定の閾値を置くことは必要ではないだろうか。
 実のところ、現在の司法や安全に関する社会システムはこうしたリスクを予防的に回避する仕組みは取り入れられていない。人権にかかわる問題なので迂闊な判断はできないこともあるが、排除の論理を正当化できる説得力ある論理が存在しないこともあろう。そして、更に言えば犯罪が多い場合にはこうした特殊要因が紛れてしまい検知できないという側面もある。
 逆に、日本が十分とは言えないものの一定の犯罪抑制に成功しているからこそ、こうしたことが本格的な議論になると言っても良い。

 話し合いや教育ですべてが解決できることは確かに理想であり、そこに向けての努力が重要であることに間違いはない。ただ、過去の歴史においてもそうだし実社会を見ても話し合いや教育では解決できない問題は厳然と存在する。それを無視しようとするからこそ極論が生み出されるのであって、理想の現実の狭間を埋める努力にもっとスポットを当てなければならないと私は思う。最大限の議論は必要であるが、結果的に生み出される対処方法が仮に多少残酷なものとなったとしても。