Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

教育について

 私に教育の全てを語るだけの知識も経験もありはしないが、それでも年齢に応じた程度には自分自身の考えは持つようになってきた。「教育」と言葉にすればあたかもその全てを言い表せそうにも感じてしまうが、「一生勉強」という言葉もあるように様々な教育の機会が存在する。
 もちろん、幼稚園時の教育と大学における教育が異なるのは当然だし、社会における教育は実践の中で覚えていくタイプの異なる形でもあろう。もっと言えば最近流行らなくなりつつある言葉だが、「生涯教育」という考え方もあり余生を知の獲得という楽しみにより過ごすというものもある。

 正式な教育学の中身を知らない私が正しい分類を行うことなどできやしないが、知らないなりに私が捉えた教育の形態は大まかに考えて3つある。一つは基礎情報・知識を得る段階であり、概ね小学校から高校あたりまでがそれに該当する。
 学校においては高校(あるいは高専)から次のステップを指向するところもあると思うが、第二ステップは大学・もしくは専門教育機関から初期の社員教育(OJT等)が担う。ここでは、専門知識の取得と同時に論理的思考の方法を身につける。最初のステップは、問題を与えられてそれをルールに従い解くという流れを学ぶが、ここでは問題の認識から自らが設定するための手法を学ぶ。
 最後は、自らがこれまで身につけたスタイルを深めるために、異なる分野の考え方などを広く取り入れていく段階がある。一定の実力を得て初めてこの段階に達すると思うが、人によっては専門にのめり込んでこの段階を経ない人もいるし、あるいは生涯教育として純粋に幅広い知の探究のためにこの段階を経る人もいる。

 今回取り上げたいのは、上記で私が分類した第二ステップである高等教育についてである。専門教育においても知識の取得は重要であっておろそかにできるものではないが、それと同じ程度以上に問題の認識と把握、そして解決方法の考案・試行、解決策の提案というステップを学ぶことが重要となる。
 確かに社会出でれば否応なしにこうした問題を突き付けられるであろう。大学では理論や分析手法を学び、社会で現実の問題対処の方法を学べばよいという考えがあることは理解するが、それは逆に大学等の高等専門教育機関の教員がそれを十分に教える能力(あるいはノウハウ)を有していないからではないかとも考えたりする。
 一方で優秀な学生は受験時代などから自分で既に一定のスタイルを見つけており、教員がそこを指導しなくとも専門的な課題を与えるだけである程度の対処ができる。こうした優秀な学生を称賛することは容易だが、その裏側に問題認識や解決のための方法や考え方が判らないままに脱落してしまう学生たちも少なからず存在するだろう。
 日本の大学は「入りづらく出やすい」とかつて言われてきたが、少子化の進展により「入りやすく出やすい」状況が今眼前にある。しかし、時を同じくして企業体力の低下による企業教育の劣化も考えなければならない。就職状況は景気動向に大きく左右されるため、大学で本当に学んでおくべきことについては曖昧にされがちではある。ただ、それでも最も重要なことは単純な専門知識の蓄積に終始したり中途半端な擬似成功体験を感じさせるのではなく、きちんと物事を発想し生み出すための思考の流れを身につけることではないかと思っている。

 単純に高度な問題に取り組めばいいというのではないし、難問にチャレンジしてみるということでもない。もちろんそれでも構わないのだが、挑戦することが目的ではなく挑戦した先に掴むものが真の目的である。
 素晴らしい研究に果敢に取り組む教員の後姿を見て学生が育つという面もあるだろうし、先ほども触れたように優秀な学生は自分で課題を発見し、自分なりの解決手法を見つけ出すこともあるかもしれない。しかし、おそらく大多数は何をすべきかを悩み、何を獲得したらよいかに気付かないまま時間を過ごして行く。

 それでも形式的に卒業という形を迎えることは、よほど酷い状況でない限りは整えることはできるであろうが、これは必ずしも学生のための理由によるものではない。既に就職が決まっているから、または形だけでも成果を残すことで学校の威信に傷がつかないで済むなど、体面の問題が大きい。
 正直な話を言えば、学生時代に素晴らしい研究成果の糸口を見つける人は非常に稀なことだと思う(大学院なら可能性はある)。その一部の人を見ることも重要だが、逆に言えばこうした学生たちはおそらく自らの力で道を切り開いて行ける。これこそがグローバルそのものではないがG型と呼称されるものの正体かもしれない。

 他方、多くの学生たちは研究内容どうこうではなく、問題認識・調査把握・状況分析・判断・検証・成果の発表などのどんな分野でも通用するであろう方法論を理解しないままに、形のみそれをトレースして社会に出ていく。もちろん社会で学ぶ機会は山ほどあるのだが、社会は社会で結果重視となるため時には歪んだ形でそれを学ぶこともあるだろう。
 高等教育機関で学ぶべき最も大切なことは、どんな分野であろうが問題を見出し解決していくための基本的な手法ではないかと思う。その例示的な意味で研究テーマがある。

 私が言っていることは取り立てて目新しいことではあるまい。誰もが考え、すべきだと思っている普通のことであろうと思うのだが、意外と教育を巡る議論における焦点にはなっていないように感じるのだがどうだろうか。
 社会に貢献することや、世界と勝負できるという切り口もわからなくはない。いや、むしろ非常に訴えかけやすい提示であると言える。しかし、外面におけるそれをいくら糊塗しようとも教育の質が本当に向上するのかについては少々疑問に感じている。
 まあ戯言と言えばそれまでではあるが、ちょっと書いてみたくなったのでここに残しておくことにする。