Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

父親型・母親型

 多忙のためしばらく更新ができませんでした。今月もそれほど更新できないと思いますが、よろしければ気長にお付き合いください。

 さて、保守(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%88)とリベラル(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9)という二つの政治的な思想は、両極に右翼と左翼を張り巡らせながら対立とも融合ともつかない微妙な駆け引きを続けているように見える。私は保守的な考えを持っていることは自認しているものの、どちらが正しいと明言するつもりはない。ある時には一方がよりベターであり、また時と状況が変われば適切な考え方が逆転することもある。時期のみならず、ある分野については一方の主張がフィットするが、別の分野では他方の考え方の方が整合性が取れるケースも見られる。
 このように、社会的な思想に絶対的なものが存在するわけでは無く、時代や社会環境により常に変化していくものであろう。だから、異なる思想を非難(卑下)し続ける言論を様々なメディアを通じて見るにつけ、視野が狭いように演じる(自分を追い込む)のも大変だなとため息をつく日が少なくない。

 私も若い時(10代や20代の頃)には、思想としてリベラルの方が格好いいとなんとなく思い込んでいた時期があった。権力は国民を押さえつける存在だというステレオタイプな宣伝を真に受けていたことは今となっては誠に恥ずかしくもあるが、若気の至りと青臭さを懐かしむ気持ちも未だにある。その上で考えれば、リベラルであるか保守であるかという対立の問題も、世界でも最も平和な地域である日本においては実質的に然したる違いはないのではないかと感じたりもする。
 広い世の中や過去を見渡せば、時に人権を蹂躙するような部分があっても必要悪と納得せざるを得ないケースもない訳ではない(それが良いと言っているわけでは無い)し、伝統と革新は両者の混在の仕方にこそ妙がある。その絶妙のバランスを常に時代を見ながら調整していくものであろう。

 その上で、現在のリベラルと保守という枠組みそのものが一般的な言葉の持つ意味とは必ずしも合致しないという面も見えてくる。通り一遍に考えれば保守は伝統を重んじ、これまでの歩みに価値を見出す思想体系を言い、リベラルは元来「自由主義」を意味する言葉であって政府の関与を小さくしようとする動きではあるが、現状リベラルを標榜する政治家たちは手厚い福祉政策など大きな政府を指向していたりもする。
 保守的な政治家は、一部において小さな政府を指向して「新自由主義」と呼ばれるようなネオリベラリズム(古典的自由主義の保守・経済保守)を主張する向きもある。今となっては新自由主義の勢いは一時ほど見られなくなったが、それでもかつてそれを指向した人たちはまだまだ第一線で言論活動していたりもする。私の意見は、ここのでのエントリを見ていただいてもわかると思うが、新自由主義にはむしろ否定的である。
 さて、現状日本の政治における保守とリベラルの最大の争点は、実のところ富の再配分の方法になるのではないかと私は見ている。弱者を救う形にするか強者を応援する形とするか。もちろんどちらにしても一方のみを行うものではなく、両者のバランスをどのように操作するかということであって、やっていることは保守系の政党でリベラル系の政党でもそれほど極端な差はない。

 弱者救済のスタイルは外交においても如何なく発揮されており、リベラル系の政党は特定アジアに寛容である傾向が強い。しかも、現代の日本を否定するのではなく過去の日本を否定するというクッションを利用しながら、実質的には今の政府を批判するスタイルを取っている。これは、中国や韓国が日本を貶めようとして利用している方法と見事なまでに一致している。
 社会的弱者にも、真の意味で弱者である場合と弱者というポジションを利用しながら利益を得ている場合とがある。もちろん、弱者は保護されるべきであるという基本的スタンスに異論はない。ただ、擬似弱者が闊歩する状況を知れば知るほどに本当に正しいのだろうかという疑問が湧きあがるのも事実である。最近の生活保護を巡る議論がまさにそれに当たるであろう。
 ただ、こうした議論が可能であるのは日本が成熟し安定した国家であり社会であるからという側面は忘れてはならない。本当の意味で日本が没落していたとすれば、議論の焦点はおそらくこんなところには当たらない。
 だからこそ、状況に応じた施策(それを引き出すための様々な主義の展開)というものが必要だと私は考える。

 ところで話はいきなり飛ぶが、一般的に今の日本で言われる保守層は父親型思考でリベラル層は母親型思考ではないかと、ふと考えたりすることがある。父親型や母親型をステレオタイプに規定することには反発を受けることもあろうが、あくまで例示のために当てはめている訳であって、それが全く同じ役割を果たしているというつもりはない。
 ただはっきり言えることは、どちらかのみでは不足し両者のバランス良い存在が安定した家庭を築き上げる。言い換えれば一定の役割分担が存在する。今の時代、男性らしさや女性らしさを過度に強調すると反発を受けることも少なくないが、性差は自然の摂理でありその存在を無視したように見える意見はどこかに歪を生み出すと思っている。
 ただ、外向きの姿勢が現在の保守には感じられ内向きの傾向がリベラルには見て取れる。単に私の思い込みであればそれでも良いが、この両者は片方のみでは成立しないのは既に述べた夫婦の在り方と似ているように思うのだ。

 繰り返すが、どちらが良いという絶対的なものなど存在しない。ただ、場面ごとにどちらが前面に出た方が良いのかということはあるだろうし、家庭を引っ張る役割も子供の成長と共に変化することがあるように、時代の状況に応じて変わっていくものではないだろうか。