Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

黒船コロナによる令和維新

 自粛効果が効いてきたこともあって、新規感染者数が相当抑制されてきた(政府 39県の緊急事態宣言解除を諮問 愛媛は議論 新型コロナ | NHKニュース)。PCR検査不足の話は今もメディアから聞こえてくるが、やみくもに増やしたからと言って感染者抑制が成功するとは限らない。重要なのは、PCR検査が不足している(していた)のが東京を中心とした大都市圏であること。また、コロナ患者がコロナ以外の死亡者数に紛れているという主張も、確かにそれがゼロとは思わないが、欧米ほどではないのも間違いない事実であろう。検査は一つの重要なキーではあるが、すべてではないというだけのこと。

 当初(2~3月ごろ)より書いているが、理由にはさまざまあるだろうが結果的に日本は世界と比べると低い致死率となり、中国のような強制力を伴わない日本方式での対処を行い、それなりの結果を得つつある。目覚ましいものではないし政府が十分に上手くやったとも言わないが、おそらくは何らかの幸運にも助けられ(BCG有無でコロナ死亡率「1800倍差」の衝撃 日本や台湾で死者少ない「非常に強い相関」〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース新型コロナ BCGワクチン“予防効果なし” イスラエル研究G | NHKニュース)日本人の同調力が効果を発揮しつつ、悪い結果ではないというのが相対的な評価ではないか。同調力が悪い方向に発散している例(弘前で「地元在住知らせる」マグネットシート販売へ 「他県ナンバー狩り」対策に(みんなの経済新聞ネットワーク) - Yahoo!ニュース)もみられるのは良くない方向への発露だと思うが、これだけの緊急事態では少しであれば生じ得る話であろうとも感じる。

 

 さて、これも当初より書いてきたことではあるし、一部の有識者も既に触れてきた内容だが、コロナウイルスは人間社会に定着するであろうこと(WHO、新型コロナ「消滅しない可能性」 終息に長い道のり - ロイター)も、だんだんと話に出るようになってきた。すなわち、コロナ後も社会は元通りにはならないということを意味する。コロナウイルスが弱毒化することで人類に無害に変わっていくという可能性もあるし、強力なワクチンが開発されて脅威が軽減できる可能性も確かにある。だがメインシナリオは、インフルエンザよりもやや強い(数倍から10倍程度の致死率の)新たな季節性感染症が日常的なレパートリーに加わるということ。さらに悪い想像をすれば、一度罹患すればコロナと一生付き合わなければならないという可能性すらもある(何度も再発するようなケース)。

 これに対し、人間社会はどのように向き合うのか。それが現在問われ始めている。政府に期待する財政支出や各種支援は、社会が元に戻ることを前提にしたものである。コロナが消えないという前提に立てば、それは今後も残るコロナの脅威を受け入れるという考え方につながる。極端なことを言えば、ブラジルやスウェーデンのように過激な対応をせずに自然に任せるという手法である。だが、同時にコロナの脅威すなわち私たちが感じる恐怖感は、人々の行動をいつの間にか変えていく。すなわち、政府がどのような対応をしようともコロナウイルスが消え去らなければ、社会の在り様や仕組みは間違いなく変わる。変わらざるを得ない。

 

 私たちの行動が変わる、変えなければならないというメッセージは、緊急事態宣言を解除しても当面は変わらない。自粛により抑え込んだ流行も、それを解除すれば再び出てもおかしくはない(中国、北朝鮮国境近くの都市封鎖-新型コロナのクラスター拡大 - Bloomberg韓国・文在寅、梨泰院のクラスター発生で新型コロナ第2波に警戒感 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)。また、仮に日本での封じ込めができたとしても、世界中で消えなければ気を抜くと再び襲い掛かってくる。ワクチンにしても、多くの人に提供できるようになるのは1年から2年先というのが最短での予測であり、それ以上かかってもおかしくはない。スペイン風邪の様に次の冬により強烈な第二波が来る可能性もある。

 すなわち、社会はコロナ以前とは同じではいられないのだ。そのことを私たちがしっかりと認識し、受け入れること。言われて嫌々変える行動ではなく、それ以前の意識そのものが変わることが重要である。具体的に意味するところは、企業や商売の形態変化を受け入れること。既に、既存事業を手じまいしてポストコロナへの新たな取り組みを想像しているところは少なくないと思う。あるいはそのための方法を講じ始めているところはもっとあるだろう。私たちは、今まで通りではいられないということをいかに早く自覚・認識できるかが重要なポイントとなる。

 これまで通りいられないとはいっても、人の生活を構成する衣食住や娯楽そのものがなくなるわけではない。むしろ、新たな形にあったニーズは間違いなく存在する。そもそも商売とは需要があって初めて成立するのであって、供給側の論理が通用するのはよほどの寡占状態か、それでも良いと考えられるだけの価値がある場合に限られる。それを素直に解釈すれば、新たな需要(ニーズ)を探しだして、それに向けて業態を変えていくことが必要ではないか。通常の社会のリズムでは、それが徐々に進行していくが、今回はコロナという外圧により変わっていくのである。ペリーにより日本が国際社会の荒波に巻き込まれたように、コロナにより私たちは大きく変わる時代に立たされた。どれだけ昔を懐かしんでも、この変化を避けることはできない。

 

 さあ、私たちはみうからの意識変容により行動を変えるのである。政府が言う行動変容は当面のパッチに過ぎない。むしろ、自らが状況を考えて何を行うべきかという命題に向き合わなければならない時代が来た。それを早く成した人から、ポストコロナの時代に適応していくのである。

検察庁法改正という虚構

 私はTwitterをしないので、そのトレンドの広がりはネット情報などから類推するしかないが、年に一度ほど行われる誰かの扇動が上手くいった例の一つなのだろうなと感じている。その詳細は、既に2月初旬に須田慎一郎氏が伝える(須田慎一郎が解説~東京高検の検事長定年延長決定の裏側 – ニッポン放送 NEWS ONLINE)ように、世論を動かすような変な内容ではない。一部の識者は指摘をしているが、騒ぎが起こることを本能的に喜ぶマスコミにとっては最高のエサ場である。正直馬鹿らしいと思うし、朝日新聞の火付けが今回もうまくいったようだが、その結果朝日新聞が信用されるかといえば、全くそうはならないと断言できるだろう。

 さらに言えば、内容もよく確かめずに「このビッグウェーブに乗るのは今しかない」と一部の政治家たちは発言しているが、後から大恥とまでいはいかなくともグダグダに持ち込まれるのは、モリカケ問題と何も変わらない。もちろん最後は、昨年秋に行われた東京高検検事長の定年延長に関する閣議決定が焦点とされるのだが、そこに至ると検察庁法改正とはいったい何なのかという本質がわからなくなる内容である。

 もちろん、今スグにこの改正をしなければならないのかというポイントはあり、議論の余地が全くないかと言われれば疑問はある。だが、これがコロナで国が揺れているときに行うべき運動かと問われれば疑問がある。そこまでクリティカルな内容だろうか。

 

 もっとも、ネットリテラシーのある人たちは既にこの虚構に気づいており、非常に冷めた目で社会を生暖かく見ていると思う。まあ暗い世の中なので一つくらいこうした祭りがあるのも、賑やかしには丁度良いのかもしれない。芸能人がいくらツイートしようが、個人的にはそんなものはどうでもよい。多くのこういった運動(マイナンバーや特定秘密保護法等)が気づけば記憶から消えているように、忘れ去られるだけの運命でしかない。逆に言えば、芸能人を叩いている人も、よくそんな暇なことをするなと感じている。井戸端会議や世間話が広がった程度のものなのに。そもそも、ツイッターは昔の2ちゃねると大して変わらない場所なのだから、目くじら立てるのも馬鹿らしい。

 一方で、政治家というよりはいくつかの政党(野党)がこの話に乗って存在感を示そうとしているが、こんなグダグダを続けるほどに支持率は下がっていくことになるだろう。政治家は結果により自分の存在価値を示さなければならないが、何年もに渡り答えの出ない言いがかりのような攻撃だけを続けてきた政党ほど、同じことを繰り返すほどに指示が離れていくと思う。人を貶し攻撃するのは得意で、口先でコロナ対策に関する大風呂敷を広げることはあっても、一般論のみで具体的な内容は何もない。それは言い換えればまったく能力を示せていないのと同じなのだから。

 以前、私は自民党へのカウンターパートとして旧民主党に多少の期待をしていたし、そのような内容もここで書いてきた。だが、それは当時生まれていた民主党がかつての社会党のようなくだらない政党から脱するということを期待してのものであった。現在の立憲民主党は、昔の社会党を彷彿させる。口では政権奪取を唱えるが、実態としてそれを担える能力を全く示そうともしない。仮に示そうとしていると主張するなら、そのこと自体が立憲民主党という政党に能力がないことを体現している。

 

 かなり前から、安倍政権の最大の応援団は野党であると揶揄されてきたが、今回もそのパターンを踏襲しているなというのが、私の素直な感想だ。検察法改正というほとんど意味のない問題に拘泥している間に、裏で別のことを着々と進めているってな話があっても全く驚かない。むしろ、「政権を実質的に揺るがさない問題で時間を浪費してくれてありがとう」と感謝をしているのではないか。

 今回のコロナ対策、私は結果論としてはそこそこ上手くいっていると思うが、それは政府の対応が良かったからではなく、日本人の民度が為した結果だと考えている。中国型ではない日本型のコロナ対応。韓国が日本より早く一旦の終息に向かったのは、検査を数多く行ったことが最大の要因ではなく、政府を信用せずに早期に国民が自粛に入った結果であるという意見(「防疫で世界を先導」と胸を張る文在寅、「反面教師に」と冷ややかな安倍晋三 | デイリー新潮)がある。むしろ無駄な検査を数多く行っており、更には人権侵害ともとれるほどの監視社会の構築により成功している状況だ。

 アジア人には一定の抵抗力がある可能性(BCG,あるいは別の抗体かはわからないが)も高く、それが欧米ほどの広がりを起こさなかった理由である可能性は高い。更には、今後の経済対策をどうするのかも国会で議論すべき重要なテーマである。どの業界・どの企業を国が救い、ホテルや飲食業界に業態転換をどの様に促すか、そのための費用や対策を如何にすべきか、などt論点は山ほどある。もはや、救済問題だけではなくポストコロナ(共存も含めて)に日本社会がどのように変わりながら持続していくかを考えなければならない。

これから広がる仕組みを想像する

 新型コロナが多少落ち着いたとして、どんなニーズがあるかを勝手に考えてみた。もちろん、私が思いつくものなど限られているが、一部を列挙してみたい。

 

<安全・衛生面>

〇空調設備が完全なバス:航空機や新幹線の様に、給排気が完全にコントロールされ、客席の独立性も今まで以上に良いもの。低コスト輸送のニーズは、今後も減ることはないだろう。

 

〇紙幣を紫外線で殺菌・消毒するCD・ATM機:日本ではいまだ現金取引が多く、徐々に電子化が進むにしても一時的に必要になる。それ以上に、電子化されたデータはパニック時にアクセスできず引き出せなくなる可能性もあるし、カードやタブレット表面は感染源になり得る。紙幣やコインが紫外線や薬剤により消毒される過程が、今後のCD機やATM機に加えられるのではないか。

 

〇レジの機械化:既に一部の店舗では実施されている、レジにおけるお金の受け渡しを機械(精算機)により行う方法は一般化していくだろう。コンビニでさえ進むかも。既にユニクロではICチップを自動的に読み取り精算している。すると、人員削減が進むわけではあるが。合理化のために行うのではなく衛生面から進み、結果として合理化につながっていく流れ。ウェットな関係性を懐かしみつつも、コロナを理由に一気にこの流れが加速していく。

 

 

<販売・飲食>

〇外食店舗の個室化:一蘭のような仕切りや、個室化、ブース化が進展。すなわち、一時的にパーティションの需要が増加。

 

〇出前の復活:飲食店は、店内販売が主である状況から、出前(あるいはテイクアウト)中心に変化していく。ただ、その過程で多くの飲食店が淘汰されていくだろう。

 

〇商店でのフェイスシールド使用常態化:対面販売は避けられる可能性が高い。店員と脚後お互いにシールド越しの会話をするようになったり。

 

〇エアカーテンの常設:出入り口に消毒用のエアカーテンが常設されるケースも。

 

 

<エンタメ関係>

〇Eスポーツ:スポーツではないという話もあるが、今後モーションキャプチャーなどの利用で、実際のプレイヤーがバーチャルに対戦する形が生まれるのではないか。

 

〇トライブ・イン・シアター(映画・劇場)の勃興:観客の密な接触を防止しながら、エンタメを実施するには室内ではなく、むしろ屋外が狙い目。新たな建物建築や改修を行っても、密な状態は解消できない。すなわち、エンタメ拠点は都心部から土地のある都市近郊へと移動。客に感染させなければ、演者の感染確率増加は個別対応で止む無しか。

 

〇観光地の予約制度:入場制限が必須となり、事前予約なしには観光地に入ることが制限される。特に人の集中するtころではこの傾向が高まる。だが、それを逃れた場所に人が集まり社会問題になることもあろう。(5/14追記)

 

 

<労働と生活>

〇オフィスの変化:既にオフィスなどでもパーティションや、面積当たり人員の減少が準備されていると思う。だが、スペースを大きくとると採算性が悪化する。その結果、かなり先の話ではあるが不動産価格の下落に結び付くと思う。リモートワークにできることと、できないことの仕分けが今後進んでいくだろう。持ち出し可能な荷物や資料は自宅に置き、会社ではフリーデスク制も増加するのでは? 一部業種では、成果主義が加速。

 

〇自動運転を取り入れた動く部屋(型自動車):これは更に未来の話になるが、地方都市などでは自動運転の自分の部屋がそのままオフィスになる。自宅に接続すれば自宅の一室として、オフィスに接続すればオフィスン執務室として。ライフラインを、接続する場所に依存する形。

 

 

<教育関係>

〇遠隔授業の常設化:遠隔授業が可能な科目では、教員の首切りが進行。遠隔授業で教育能力の高低が明確になる(既に予備校等では当たり前だが)。それに反発する形で、実習授業の増加がみられるのでは。

 

〇遠隔授業と対面授業の並列開催:半分の生徒は遠隔、半分は対面(あるいは1/3が対面、2/3が遠隔等)。登校日が異なる形になる。授業の進行が遅くなるため、土曜にも授業が行われるようになる(土曜半ドン復活)。

 

 

<全般>

〇結果として人員削減が促進

〇贅沢な趣味や活動、消費が、一部では突出するようになるが、全体としては抑制される

〇出張の減少が一気に進む

〇シティホテル稼働率低下

〇宴会の減少(ホテル、その他)

〇都市部におけるオフィス需要の低下

 

 もっと考えれば出てきそうだが、とりあえずさっと思いついたものを書いてみた。社会は大きく変わっていく。今は大変だが、先んじた者が成功を手にしていく。一つの強制的なパラダイムシフトであろう。

ポイントを押さえる嗅覚

 前回の頭の良さについての続きのようなものだが、網羅的な勉強(あるいはパターンに従った体系的な知識取得)が子供のころ評価される頭の良さだったとして、大人の評価されるべき頭の良さは、最終的な成功が求められるのは言うまでもないがその前段階として、的確にポイントを押さえる嗅覚を持っている(養ってきた)かというポイントにあると思う。

 例えば、スポーツ選手における得点感覚であるとか、全体を見渡しコントロールする力であるとか。起業家の、将来を見越した新発想や新分野へのチャレンジであるとか。私たちはこの嗅覚を十分に備えてないと、かなり無駄な選定(狙いを定めるための仕分け)のための作業を強いられ、そこに多くの時間をかけなくてはならなくなる。実は、受験勉強でも記憶力が良ければそこそこ乗り切れるという話を前回にしたが、それ以上に優れた能力は試験問題の狙いを見抜く力である。力業で全ての試験問題パターンを覚え込むのではなく、少ない労苦でいくつかのキーパターンをつなげる方法だ。「ひらめき」などと呼ばれることもあるが、それは別に第6感でも何でもない。体得できる技術である。

 もちろん、最初からこうした能力や技術を持っている人はそれほどいないだろう。自分の経験の中で、無駄打ちをするのではなく如何に効率的に物事を進めるかという試行錯誤を繰り返し、このような能力を獲得していく。もちろん、全てに対して効率的に物事を進められるはずもなく、時間をかけ地道に対処しなければならないものも存在し、この両者を上手く使い分けられることが最も良い。水鳥が水中で忙しく足を掻いているように、スマートに見える部分とその背景にある努力のバランスが重要である。

 例えば、人間関係ならキーマンに狙いを絞り効率的に関係性を構築する部分はスマートに、だがそのキーマンとの関係性を深める部分は地道かつ念入りに、といった具合に的確な方法を必要な場所に当てはめていく。対応を間違えば結果は散々なものになるだろうが、ほとんどの人は家族や親族関係、学校や職場においてこうした能力を何らかの形で獲得している(それができない人もいるが)。

 

 こうした能力は、集中力というよりは俯瞰力と言ったほうが良い。全体を見渡して自分にとって最も効率的な方法を探す。そのためには、目前でこだわっている損得を一度捨て去って客観的に分析することがまず重要である。感情ではなく、論理により判断や分析を行っていく。だが、客観性を優先させるために感情を捨て去ったほうが良いとは思わない。先ほども書いたが感情が有利に働く部分も存在し、ケースバイケースでより効果のある方法を選択できることが重要である。人間関係とは基本的にウェットなものだと私は考えている。実のところベースは感情であって、論理や客観性の方が道具なのだと思う。だが、ベースの感情に振り回されて的確な判断ができない人が多いのは間違いない。感情はうまく飼いならさなければならない。

 私は、子供のころの学びにおいてもこうした臨機応変な選択が的確にできるようになることが重要だと考えている。単なる詰込みや、勤勉さのみを追い求めるのは、一面で結果がわかりやすいものではあるが、最終的に優れた人を生み出すためには不十分だと考える。過去にも何度か書いたと思うが、社会は優れた人だけで構成できるものではなく、指揮する人、そのもとで働く人、一人で開拓する人、多くの人の共感を呼ぶ人など本当に様々な人の集合体であるからこそうまくいく。

 ただ、それでも優れた人が少なくなりすぎると社会は停滞してしまう。欧州のエリート教育は、そのあたりの問題をにらんで培われてきたのではないかとすら思う。日本の場合には、それが一般人の自主的な活動の中から育て上げられた。

 

 これも以前触れたと思うのだが、ポイントを押さえるためにはなるべく多くの判明している事実や証拠を知っている方が良い。だが、こうした能力が求められるのは緊急時(例えば今回のコロナ禍、受験などの時間が限られた中での対処等)であり、わからないことが多い中で論理的思考と経験から引き出される想像力により導き出す。社会の中では100%の証拠が揃っていても信じたがらない人もいるが、これをどれだけ早期にかつ少ない情報の中で判断できるかが求められる。

 研究開発や芸術等創造の世界では、もともと答えがないものを探し続けることからこうした能力が養われやすい。もちろん、基礎部分には非常に多くの知識と過去から受け継がれる技術がなければならない。だが、このような中でより良いものを探索していくトレーニングはポイントを押さえる嗅覚を磨くには最適である。人によってその理解に大きな差があるのは事実であり、誰もがそれに適しているとは言えない。だが、目の前の事象ではなくその背景にある最も重要な要素を見抜く力は非常に大切である。

 私は若い人たちと、新たな提案にチャレンジする取り組みを行っている(今は難しいが)。そこでは、問題とされる社会事象を自分たちなりに解き明かし、その背景に隠れている根本的な問題を探し、解き明かし、対処を考えるというトレーニングを継続的に行う。最初は何をしているのかすらわからない若い人たちが、徐々に自分たちの意見や考え方を表明し始めるのは、その答えが間違っていたとしても嬉しいものである。

 自分自身で、長きにわたって取り組みたい問題・課題とその核心となるポイントを見出し、そこにチャレンジをしようと決心する時、おそらくその人は社会に役立つための最初の関門をくぐるのではないか。ただ、自分がそれを信じられないままに行っている人もいて、それは悲しい話でもある。

頭の良さとは

 「昔神童今凡人」とは、子供のころは周囲を驚かせるような天才ぶりを発揮しても、大人になってしまえば凡庸なさまを言い表す言葉だが、子供のころに垣間見える才能と実社会で期待される実力との違いを考えると、往々にして生じる事態であってもおかしくはない。社会人あるあるで聞かれる話としても、東大を卒業して、あるいは博士課程を出ていてもプライドが高いばかりで使い物にならない人の話もよく出てくる。だが、実際には多くの東大出身者たちが会社を率い、あるいは高い社会的立場に立っているのも事実。天才ではなくとも秀才として、社会を築き上げる重要な役割に担う人も多い。

 そもそも、考えてみれば社会に求められる能力とは、学校で学ぶ勉強により得られるものとは同じではない。テストでいくら良い成績をとっても、社会に出て無能の烙印を押される人はいくらでもいる。一方で、いろいろな事情で高等教育を受けなくとも、社会において役立ち十分な地位と報酬を得る人も(少ないかもしれないが)同様に存在する。だが、それは与えられた場所や役割において、的確にそれを担えたかを問うているものである。場所が変われば十分と活躍できる人もいるだろうし、ポストが変われば途端にダメになる人もいる。全ての役割に対して的確に演じられる人はすごいが、そんな人がどれだけいるか。良い学歴を得るということは、自分に合った仕事に就く可能性を自ら高めたと考えると、一つの答えになるような気がする。

 私は、学歴そのものはそれほど信じていない(その人脈力は認める)。最も尊敬するかっての職場の先輩は、大学を出ていなかったが判断力や物事の考え方の基盤が素晴らしかった。高度な理論や知識を持たずとも、意欲や判断力でも素晴らしい人はいくらでもいる。むしろ学歴や職歴をひけらかす人の方が信用がならない。自分自身の良さを、他をもって説明しているのだから。

 

 実は、「頭が良い」という言葉にはかなり広範囲な意味が内包されている。例えば、非常に記憶力の良い人は手っ取り早く頭が良いといわれる。極論を言えば、記憶力さえあれば受験戦争はすべてではないものの比較的容易に勝ち抜ける。だが本当の意味での頭の良さは記憶力(=過去の知識を当てはめる)だけでは不足し、むしろ創造力の方が重要だったりする。ただ、ここでいう創造力は芸術などのそれとは少々異なるように見えるが、本質的には同じものだと思っている。それは、過去の常識に囚われずこれまでになかったモノ(作品や概念)、サービス(技法、手法)などを考えだし、更にはそれを実現にまで粘り強く持っていける人だと考えている。

 新しい物事を考えつく人は結構な頻度で存在する。だが、その多くは実現されることはなく時間の中に埋没していく。本当に頭の良い人は、知識の中、思考の中だけで終わることはなく、それを実現するための忍耐力や継続力を持っている人だと思う。頭の中だけの頭の良さは、口頭でいくらでも披露できる。こんなことを知っている、こんな情報を持っている。確かにそれが役立つ場面も、一瞬の判断を求められる場所では少なくはない。

 だが、私が求める真の意味における「頭の良い人」は、(0)他者の作った情報や知識のみに留めず、(1)それを基盤に自分自身のオリジナルの能力に昇華し、(2)それを実現して結果を残す人のことである。(0)のレベルの頭の良い人は山ほどいる。だが、(1)に至るのは(0)を経由しなくともよい。自分自身の試行錯誤でそこに至る人も多い。もちろん、(1)のオリジナルの能力にも大きな幅があり、自分自身におけるちょっと有利な方法程度から、多くの人を幸せにする独創的な技術・能力に至るまで幅は広い。だが、(0)をひけらかす人よりは小さくとも(1)に至れた人の方が、頭が良いというにふさわしいのではないかと思う。残念ながら現在の受験勉強は(0)のレベルを目指すことに特化しており、(1)を見出すための方法論を説いている例が少ない。

 

 ただ、オリジナルの何かを頭の中、あるいは自分(もしくは小さな集団内)だけが受益者になるレベルから、多くの人に広げられるようになった時、真に花開くのではないかと考えている。1から一人ですべてを作ることはこの時代不可能だが、有効な知識や情報を的確に利用しながら、多くの人を幸せにする力(幸せの形にはいろいろとあるが)。それを実現すること。

 新たなものを作り上げる、発想を作り上げる時、例えば特許申請を考えてみても、世の中の人は本当にいろいろなことを「既に」考えているのだ。もちろん、その山ほどある発想のうちで世の中に出るものはほんの一握り。更に、それがヒットして多くの人たちを幸せになる可能性はもっと低い。砂浜で星の小さな欠片を見つけ出すほどに。

 だが、客観的かつ冷静に自分の発想の有効性を確信し、それが成功するまであらゆる苦難を潜り抜けて継続できること。自分(自分の抱いた確信)を信じ続けられること、そのために全てを賭けることができること。そう考えると頭の良さだけでなく、ある種狂気のようなものが宿るほどに深みにはまることができる人を「天才」と呼ぶべきなのだろう。表面的な「頭の良い人」は数多くいるが、彼らの中で社会を変える人はほとんどいない。本当に頭の良い人は、きっと社会を変えていく。

増加する紛争

 新型コロナにより引き起こされる武漢肺炎の問題は、世界の経済を混乱させる(【地球コラム】新型コロナ、世界経済直撃:時事ドットコム)だけには留まらず、世界中に紛争の種をまき散らしていく。既に、この感染症の政治的ダメージを軽減するため、世界各国は中国を人身御供にすることを決めた(英独仏も、世界に広がる中国への賠償請求の動き 新型コロナが生み出した世界の新たな対立構造(1/3) | JBpress(Japan Business Press))ようだ。中国に実際どの程度の責任があるかについては、現状あまり定かではない(武漢研究所がパンデミック発生源、米国務長官が「大きな証拠」あると発言 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News)。だが、未だ武漢市や研究所での調査団受け入れを認めない(中国は推定有罪の国際調査に断固反対=外交部 | ニコニコニュース)のは、後ろめたいことがあると勘繰られても致し方がない。私は、中国政府が発生源が人工か自然かという議論から、発生場所すら中国ではないと押し戻すために拒否していると考えているが、メンツを何より重んずる中国の考え方がこの場合には悪い側に作用するだろう。議論のスタートポイントを変えることはもはやできない。

 問題は、この中国vs世界の争いがどこまで発展するかになるだろう。間違いなくお互いのさや当てはずっと続くだろうし、(コロナ前から始まりつつあった)中国排除から始まる世界のブロック化はかなり進展するものの、全面的な紛争状態に入る可能性は低いとみている。正確には中国次第。各国からの軽い挑発に中国がどのような態度をとるかということだ。実質、中国以外の国で裁判を起こすことはできても(中国がコロナ報告義務違反や隠ぺい等で賠償請求される可能性も(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース)、中国政府の息がかかった海外資産を差し押さえする程度(民間にまで踏み入れない)とすれば、象徴的な意味はあっても実質的な経済ダメージは短期的には大きくない。アメリカには中国の持つ米国債を無効化するという伝家の宝刀はあるが、このカードはちらつかせるからこそ意味があるもので、実際に切れば戦争の引き金になり得る。

 もちろん、メンツにこだわる中国だから口撃は何度も行うだろうが、世界を敵に回すようなことには至らないと見る。むしろブロック化を念頭に、自国陣営を広げるために邁進するだろう。既に、いくつかの国には医療支援や経済支援をすることで味方につけようとしているが、各国の世論がそうした工作に乗るかと言えば、その可能性は低いと考える。世界は、今回の責任を中国に押し付けるのがもっとも座りが良いのだ。中国の味方になって、世界と敵対しても良いことなどない。良いとこ、中立を気取るのが精一杯ではないか。むしろ、丁度良いと中国にたかり踏み倒す国が増えるのではないかとみている。混乱期には、それすらも可能である。

 

 さて、今回のテーマは中国vs世界ではない。今後、甚大な被害が送致される途上国に巻き起こるだろう紛争の増加についてである(https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/f2005ar1.pdf)。一般的に途上国での小さな紛争は絶えない。多くの場合には権力闘争であるが、経済的な困窮がその裏側にあることも多い。そして、ポストコロナの世界はこれまでよりも貿易が停滞し、食糧生産が一時的には大きく落ち込む。日本では経済かコロナかという議論だが、途上国では飢えるかコロナかの選択肢となり得る。そして混乱のさ中の先進国が率先して途上国救済に迎える可能性は低い(新型コロナ:途上国に270兆円の支援必要 UNCTAD声明 (写真=ロイター) :日本経済新聞)。自国経済の立て直しのために、既に異次元の緩和や財政支出に踏み込んでいるのである。それすら、十分効果があるかわからない(私はそれでも相当の不景気は回避しえないと考える)状況で、他国のことまで考える余裕は多くない。だからこそ、中国はその隙をつこうとするだろうが、上記のとおり放火魔が消防に来てという国際的世論がアメリカなどにより作られていくと、それほどの効果は得られないだろう。

 一方で多くの住民が飢えると、内乱が発生する。こうした内乱をチャンスと見る勢力は山ほどいる。ISIS(イスラム国)や宗教的対立を持ち込む者たち、あるいは政敵をこの際に引きずりおろそうとする者たち。きっかけはデモ等であっても、その裏にはいろいろな思惑が渦巻く。また、紛争地域が増えるほどに難民の増加が問題となる。だが、既に欧州はこれ以上の難民を受け入れられるような状況ではない。トルコもギリシャもそれ以上だろう。コロナに罹患し死ぬ人より、こうした混乱により生じる死者の方が長期的にはずっと大きくなると思う。日本も、できる限りの協力をすべきだとは思うが、実際日本にどれだけの余力があるかは悩ましい。アメリカと組んで、基軸通貨であるドルの支出(あるいは代替通貨の円)による救済は、今後の世界体制を考える上では非常に意味があると思うが。

 紛争処理には、食糧価格を下げることが最大の効果を持つ。付け焼刃の資金援助は、カンフル剤になっても長続きはしない。結果として、コロナワクチンの開発と普及が最大のポイントとなる。だからこそ、中国も既にそこに邁進しているのだと思う。

 

 とにもかくにも、パラダイムは変わってしまった。これまでと同じでよいという考え方は捨てていく方が賢明だろう。

コロナ禍はチャンスでもある

 世界経済が新型コロナ感染症により大きなダメージを受けつつある(【地球コラム】新型コロナ、世界経済直撃:時事ドットコム)。まだその被害は大きく顕在化していないが既に苦境の声は聞こえており、今後じわじわと体力の低い飲食業や各種店舗などの廃業や倒産から始まり、幅広い業種に広がっていくのも時間の問題だろう。だが、政府は一時的な救済の手を差し伸べることはできても、そのすべてを救うことはできないしすべきではないと思う。すべてを救うのは社会主義である。そして、今後は自分たちを優先的に救うべき(「文化を守るために寛容さを」劇作家・平田オリザさん|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本)という声が鳴り響くだろう(コロナで航空業界2.5兆円支援案の全貌!「ANA・JAL統合案」浮上はあるか | 日本企業、緊急事態宣言 | ダイヤモンド・オンライン)。

 政府による支援には2種類ある。業態業種にかかわらず一律受ける支援と、特別な理由があるために政府が救う必要のある業界だ。例えば、既に世界中で問題となっているのが航空業界。ドイツではルフトハンザが、政府の支援を受け入れると同時に部分的ではあるが国有化に近づくかという協議を続けている(ルフトハンザ、独政府との支援協議と並行して破産保護申請も=関係筋 - ロイター)。ただ、独立性を確保するためには諸外国に支援を要請するだけでなく、破綻処理(再建を視野に入れた)も選択肢に入れているというところが特殊であろう。

 

 このように、特別な支援を受けるということは政府の影響下に置かれるということを意味する。芸能関係の支援を要求する声が不思議に聞こえるのは、政府の支援を受ける(=政府からの影響を受ける)ということを理解して言っているのかはなはだ疑問だ。仮に、金は貰うが影響は受けないという都合の良いことを言っているとすれば、非常に自分勝手で無責任な話である。政府が支援するから劇団員(あるいは歌手、芸人)の数が多すぎるので最低限まで縮小しなさいと言われれば、それを受け入れるのだろうか。少なくとも破綻処理から公金投入に至った企業は、大きな痛みをもってそれを受け入れてきた。

 もちろん、国として保護すべき伝統芸能や技能は一部保護されるだろうが、そこには大変大きなハードルがあるし、それに値することを証明しなければならない。税金で保護されるのだから、政府ではなく社会が認める価値が必要だ。少なくともすべてが保護されることなどありえないし、傷を負うのは間違いないが一時的に他の職業に移り、日常が戻ってから復活することも可能である。そこに困難があるのは理解するが、困難があるのはあらゆる産業において同じである。そもそも、元の状態に戻れるかどうかもわからないのだから。

 国民に対する支援は必要である。だが、誰もが特別であることを競っているのだと理解しておきたい。

 

 さて、社会が変化すれば状況に応じて各種産業も変わっていく必要がある。耐えれば過去の状態を取り戻せるのであれば、それまでの期間我慢し続ける方法もあるだろう。だが、私はコロナ後がこれまでと同じとは思わない。コロナショックは私たちの日常を変えてしまうが、逆に言えば変わるであろう社会を予測できて動き出せば大いなるチャンスにもある。環境変化により消えゆく業態を支え続けるのは難しいが、環境変化により成長する業界を応援するのは容易である。

  ただ、人は急なトラブルに対し適切な方向転換をできないものである。正常性バイアスと呼称するのは少々可哀そうな気もするが、これまで通りであってほしい(その方が面倒なことを考えずに済む)という願いがあるのは間違いないだろう。特に、営業期間が長いほどにその傾向は大きくなると思う。

 だが、過去を振り返ればコロナ以外でも様々な職業は、消えていき、内容を変え、方向を変え、環境に応じて適応するすべを探し続けてきた。この状況は芸能界でも同じである。社会変化により淘汰され、新たに興る道が常にある。今回のそれが急激すぎるために、人々は戸惑っているに過ぎない。もちろん、そんな大きな流れの中で頑固に昔ながらのスタイルを貫き通す老舗もある。そして生き残れば、新たな価値を生むこともあるだろう。だが、すべての店や企業がそれを続けられることはないし、その道を進むための苦難は自らが選択するのだから、自分で負わなければならない。

 

 だがそれでも、人の数が劇的に減ったわけではなく、人が生きていく上で求められるサービスは山ほどある。社会・生活スタイルがコロナにより変化すれば、サービスを提供する側にとってはゲームのルールが変わったに等しい。ゲームのルールが変わっているのに頑なに前のゲームのルールに固執して生き残れるとは思えない。

 コロナ後も、すべてが変化してしまうわけではない。すぐに元通りに戻る業界もあれば、決して戻れない(あるいは非常に長い時間がかかる)ところもある。業界により状況はまちまちだと思う。ギリギリまで耐えて元の姿を取り戻すというのも一つの選択だとは思うが、変わる社会の中に可能性を見出すというのも大きな決断だと思う。そして現時点では、その声が小さいことが気になっている。

 

 逆に考えれば、今は新たなシステムを生み出し、新たな流れを作るための最大のチャンスでもある。もちろん、賭けの部分も少なくないだろう。だが、今はすべてを失う時間という認識は間違っている。変化に戸惑うだろうが、同時に時代をリードできる可能性を秘めた時間でもあるのだから。起業家たちは、あるいは新たな創造者たちは、今こそ力を発揮する時ではなかろうか。

パートタイムコロナバブル

 アメリカの株価がすごい勢いで再上昇し(NYダウ反発、上げ幅400ドル超 コロナ治療薬への期待で (写真=AP) :日本経済新聞)、それに連動する形で世界の株価も大幅に上昇している。あらゆる経済指標が非常に悪い(米中古住宅販売仮契約指数、3月20.8%低下 - ロイター)ことを示している(米GDP4.8%減、約11年ぶり大幅マイナス 第1四半期速報値 - ロイタードイツ、今年の経済成長率-6.3%と予想 戦後最悪の景気後退 - ロイター)にも関わらず。治療薬への期待とされているが、そんなものは後付の理由に過ぎない。もはや、株価は経済の裏付けなしのマネーゲームとなってしまった。FRBや政府の財政出動により、あまりに急速に落ち込みすぎた株価はある程度戻すことは想定できたが、現在の株価はそれを超えている。

 今後発表されていく企業業績ではとても考えられないであろう株価が、一時的とはいえ成立しているのはまさに需給のなせる業と言えるが、それは同時にチキンゲームが極まったと考えることもできるだろう。元々、株価は完全な経済の鏡ではなく、経済を理由にして動く一指標に過ぎない。それ故に、バブルの最後には往々にしてこのような動きをするものである。ただバブルには最低限の夢が存在したが、この先壊れるのが明らかにもかかわらず値を追うという状況は、さすがに行きすぎだと思う。いくら、FRBが常識外れの資金提供や買い支えをした(焦点:「ドル大放出」で膨れるFRB総資産、臨界点はまだ先か - ロイター)としても、すべてを買い尽くすことはできやしない。

 今回のコロナショックで株式取引に参入した人は多いとされるが、そろそろ手じまいをした(あるいは売りに回った)方が良いと思う。この夢は長く続かない。

 

 とは言え、オーバーシュートするのも相場。悪い意味では、人々の欲望の権化でもある。先日も、WTI原油先物)で中国人が大損を被ったという話があった(中国銀のWTI関連商品、小口投資家の損失1000億円超に急増-関係者 - Bloomberg)が、目の前の経済に期待できないからこそ、それ以外の場所に場を求めるというのは理解しやすい。そろそろ不動産市場の方も悪化が始まったようだ(3月の中古マンション価格、首都圏2%下落 :日本経済新聞)。元々、コロナショックによる本格的な株価下落よりも、企業業績悪化(倒産を含め)および不動産価格の下落により引き起こされること(不動産の暴落がさらなる暴落を招く理由 WEDGE Infinity(ウェッジ))を予想してきた。そこに至るまでには一定のタイムタグ(数か月から数年)があり、5月中旬以降から徐々にその片鱗が見え始めるのではないかと予想している。株価は先行指標であるため、そろそろその動きを織り込み始めるかと私は考えていたが、今はラリーに夢中なようであるのが少々意外でもある。

 おそらくはどこかの時点で再度の下落に転じ、それは急激なものではなく、じりじりと切り下げていくようなものではないかと、当たらないなりに予想する。もっとも、株価の回復を予想する専門家も少なくはない(コロナ・ショックは「直下型地震」 V字回復も? :日本経済新聞)。そんな甘い話ではないと私は考えるが、考え方は人それぞれということであろう。

 

 今回のコロナショックで、世界の食料を含めた生産は大きなダメージを受ける。その後、ある程度の死者は仕方がないと開き直り徐々に回復するだろうが、1年間ほどは軽度の食糧危機のような事態も発生するのではないかと予想する。それは、途上国の社会を大きく揺るがしていく(新型コロナで経済危機 レバノンで暴動 市民に死者 | NHKニュース)。食糧輸出を絞るのが世界的な傾向となるため、逃げようがなくなることから、騒動は連鎖的に広がっていくだろう。

 また、先進国でも社会のゆがみが明らかになり、上下闘争的な政治的混乱が増えていくことも予想できる(CNN.co.jp : 貧困地区で死者激増、警官と衝突も 新型コロナが浮き彫りにするフランスの分断)。今も国会で様々な救済措置が提案されている。家賃補助や業界補助など、補助という名目は甘美で優しい。必要な補助は間違いなくあるが、それがいつまで続けられるかについては大きな問題もあろう。確かに財政支出は野党が求める様に可能かもしれないが、その後必ず税として再徴収される。要するに痛みの先延ばしであり、日本の富の再配分でもある。コロナ後がコロナ前と同じとは限らず、むしろ変わっていけるものにとってはチャンスでもある。政府にできるのは、変わらない者の救済ではなく、変わろうとする者の援助ではないか。

 短期ではなく中長期で見れば、株式や不動産はかなり厳しいことになるのではないかと予想する。それは、仮に治療薬が出ても経済の動きが停滞するからである。さらに言えば、リーマンショック後の経済復活のために行った、バブルによる救済の終焉が近いからでもある。アメリカは、経済的な落ち込みを次々と新たなバブルを生み出すことにより乗り越えてきた。だが、今回は乗り越えられるそれが見当たらない。

 現在、Nasdaqの上昇に見られるように、第2次ITバブルにより株価を支えているが、その寿命は非常に短いのではないか。ビジョンファンドの瓦解がそれを先導するのではないかと予想している。

朝日新聞の過ち

 ここのところ、ちょくちょく朝日新聞の勇み足(きつい言い方をすれば誤報)が増えているような気がしている(訂正して、おわびします:朝日新聞デジタル朝日新聞社記事、誤った経緯説明します:朝日新聞デジタル)。以前から意図的なフェイクニュース(KY:朝日新聞珊瑚記事捏造事件 - Wikipediaとか福島原発吉田調書 - Wikipediaとか)があるのはそのとおりだが、他の新聞社でも似たようなデマは飛ばしているのも事実(その重さは別にして)。ただそれ以上に、情報のソースロンダリング【経済評論家・渡邉哲也コラム】壊れ行くメディア / ソースロンダリングと2つの矛盾 | ロケットニュース24)を世界中のメディア(NYタイムスや数多くの韓国メディア)や国内子会社的な関連メディアと連携して行っていることは知られている。それが組織的・意図的なのか、あるいは主義主張の近い者たちが同調しているだけなのかは何とも言えないが、世論誘導と直接的な責任回避のハイブリッド報道システムを試みているのは明らかだろう。朝日新聞本体だけでは世論を動かす力が低下しているため、やむなく取り入れている試みだと見ている。

 例えば、韓国からPCR検査キットを輸入すべきと主張(PCR検査キット、韓国が日本支援案 要請が前提、無償提供・販売:朝日新聞デジタル)し、韓国のメディアがそれを受けて政府が検討するも否定的だという報道があったが、すぐに政府に否定された(韓国のPCRキット支援、菅氏「具体的なやりとりない」 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル)。朝日新聞により、日本政府が韓国の検査キット輸入を検討しているという報道がなされたわけではないが、阿吽の呼吸で韓国メディアが解釈をするというスタイルは、これまでも何度も繰り返されてきた姿である。さて、報道を主体にするメディアがわざわざ韓国からキットを輸入すべき(と取れる)記事を書くのか。

 ただ、日本のPCR検査数が少ないのはキット不足ではなく人員的なもの(と厚生労働省あるいは保健所の方針)なのであまり意味はない。ちなみに、一時期韓国のPCR検査キットに不良品が7~8割出たという情報が飛び交ったが、どうやらこれもデマ(日本で拡散中の「韓国産検査キット、7~8割が不良」=フェイクニュースはどのように広まったのか? (WoW!Korea) - Yahoo!ニュース)という情報が出ている。丁度、中国からの不良品の話が出ていた(中国製検査キットを返品=新型コロナ、6万個が不良品―スペイン|最新ニュース|時事メディカル)ところに加わった情報だったためネット上で急速に広がったが、調べると主要メディアは取り上げていない。

 

 朝日新聞のこうした報道姿勢については、既に何度も書いてきたため今更感はあるのだが、今回はその根本的な問題について考えてみたい。

 まず、朝日新聞は自称「クオリティペーパー」として戦後の報道をリードした来たという自負があるのは言うまでもない。そして、当時最前線にいた人たちが会社の幹部に座っている。だが、目に見えて凋落が進む中、いかに過去の繁栄を取り戻すかに頭を悩ませているのではあにかと思う。もちろん、情報産業を巡る枠組み・環境が激変した現在において、昔の状況をそのまま取り戻すことなどできやしない。時代に応じて自らを変化させながら、根本としてのメディアの矜持を守り続けるしかない。

  しかし、現実を見る限り矜持を守るのではなく仕組みや体制を守るために努力しているように見える。これは官僚機構なども同じなのだが、存在意義を証明するために変化するのではなく、現状を守るために存在意義を叫ぶ状態である。最も大切なのはメディアとして国民に信頼されることであるはずが、信頼しない国民が間違っているといった態度でいること自体が根本的な誤りであろう。そうなる原因は、これまでの姿勢を変えると自らの取ってきた行動や判断が否定されるという、矮小な自己保身の理由に過ぎない。

 

 さらに、誤報を頻発している理由には政府との距離が開いた(正確にはディープな情報源から角度の情報が入らなくなった)ことがあるだろう。周囲からの憶測的な情報をもとに記事を組み立てなければならないため、誤った報道に至ってしまうという訳だ。それに至った最大の原因は、政治的思想の異なる団体(おそらく自民党保守派)を否定したいがゆえに、適度な関係を超えた報道に邁進したためではないかと考えている。私は政治と報道は、お互い認め合うライバル関係でなければならないと考えている。これは、何もメディアに限らずあらゆる業界と政治、またはあらゆる業界と行政でも同じ。

 だが、功名心ゆえか業界と政治、業界と行政の適度な距離を否定し、対立構造を推し進めてきた結果が今に至っているのではないかと思う。もちろん、癒着を推奨しているわけではない。ただ、痛い話をするが尊敬できる人というのは常に存在する。物事には必ず両面の考え方があり、それを認め合える関係でいることがもっとも健全だと思う。

 

 だが、朝日新聞(最近の毎日新聞も似ている)はそれを逸脱した。繰り返しになるが癒着せよと言っているのではない。報道する側としての考え方と立場を政治(幅広い政治家)に認めさせることができなくなっているという懸念である。それは、スクープ至上主義が生み出した弊害なのか、過去の栄華を取り戻そうと愚かな道に入り込んだためかはわからない。

 だが、記者は政治家にも一目置かれるような存在でなければならないし、それを記事にするときにも相手に認めさせるものでなければならない。だが、今の状況は全くそんなレベルには至っていない。自分だけの都合と、自分だけの主張を相手に叩きつけて誇っている状況。そんな人が尊敬させるようなことがあるだろうか。これは、政治家でも国民でも同じ。要するに、記事と記者とそして新聞社のレベルが相当に落ちている。

 

 だが、そのことを朝日新聞をはじめとするメディアは認めないであろう。最も重要な過ちは、自らを客観的に見れていないことではないかと思う。

ダイヤルQ2はネットで復活するか

 新型コロナウイルスの感染爆発懸念より、日本でも実質強制に近いような自粛が繰り広げられているが、私はこの自粛は必要なものと考えており、堀江氏のように厳しい自粛の必要がない(堀江貴文氏が過剰なステイホームにNO!!「通常の感染症対策をして、ふつうに生活しようって前から提案してる」:芸能・社会:中日スポーツ(CHUNICHI Web))とは思わない。もちろん、責任を負うことがないから自由に発言できる話ではあるが、未知のウイルスを怖がることは悪いことではない。このウイルスを根絶するのは無理だと考えてはいるが、治療薬やワクチン等の戦う武器になしに挑むのはまずい。もちろん、恐怖心が過ぎて社会に過大な負荷がかかるのは良くないが、人類の英知による対抗策が出るまではなるべく感染を広げない方が良い。

 現時点で確証ある話ではないが、再感染(あるいは再活性化)の情報(新型コロナウイルスは回復した患者の体内で再活性化も-韓国 - Bloomberg)や、一度罹患すると回復しないダメージを受けるという話(新型コロナの治癒者、肺機能の回復が難しく運動能力が影響を受けるか--人民網日本語版--人民日報)もちらほらと出ている。ここにきて、新型コロナウイルスは呼吸器系の疾患というよりは、体中のあらゆる場所にダメージを与える疾患という印象(新型コロナ、脳に影響も 神経症状の報告相次ぐ - WSJ新型コロナウイルス感染の重症化と血栓症について | さいたま市大宮区の胃腸科・泌尿器科 大宮エヴァグリーンクリニック)が強まりつつある。

 

 さてこのような状況下、多くの芸能人が仕事が消滅したという情報を発信している。音楽や演劇、俳優など幅広い芸能系のアーティストたちも、金銭的に余裕がある人は落ち着いているが、それ以外は損失補償を求めて積極的に活動している状況がある。だが、サービスはニーズがある場所で提供するからこそ利益が上がる。現在、社会として自粛が求められる状況では、それに沿った形でのサービスが受け入れられる。逆に言えば、少なくとも現時点ではこれまでと同様のサービスは環境に適合しなくなっている。その典型はAKBなどに代表される会いに行けるアイドルではないか。会いに行けない状況下では、前提条件が崩れてしまった訳である。

 逆に言えば、この状況(誰もが家に籠っている状況)にマッチしたサービスを提供すれば、成功の道筋も見えてこよう。現在、Uber Eatsが活況を呈ているようだが、これも現在の環境に適合した仕組みであると言ってよい。

 なら、芸能人たちもこれまでのテレビなどの払いの良いメディアだけではなく、ネットを通じたサービスを提供すればよい。既に、Zoom(アメリカでは排除されつつあるが)を始めとした、様々なネット通信システムが基盤として提供されている。私の場合もZoomだけではなく、Teamsなども使ってやり取りしているが、十分とは言えなくとも一定のやり取りは可能になる。

 

 具体的には、ネット回線を使ったプライベートな交流体験を商品として売ればよいのである。昔、アダルトコンテンツとしてダイヤルQ2ダイヤルQ2 - Wikipedia)という有料の電話サービスが用いられていたが、その後は引き続きネットを用いた様々な有料コンテンツ(主にエロ関係)が登場してきた。それと同じように、芸能人とのネットを使った個別(または団体)交流をコンテンツとして販売すれば、それを望む人はかなりいるのではないか。

 もちろん、画像流出や変な噂を流される等のマイナス面が予想されるので、その対策を考えなければならないだろうし、課金システムをどの様に設けるかも重要だ。だが、誰もが暇を持た余すこの時期に、好きな芸能人と何らかの形でつながれると考えたならば、お金を出す人はかなりいるだろう。

 もちろん、プライベートコンサートを開いてもよい。決められたスケジュールに従いネットで自分たちだけのコンサートを独占できれば、その価値は人によれば大きなお金を出すこともあるだろう。要するに、与えられた環境に応じたニーズを把握して、それに従ったサービスをいかに早く提供できるかの勝負となっている。これまでの状態に幻想を抱き続けても、そこに戻るには長い時間が必要だろうし、完全には戻らないかもしれないのだから。

 

 飲食店でも出前の復活がみられるようだが、Zoom飲み会パックとか、いろいろな商品開発も考えられないだろうか。むしろ、これは新たなビジネスのための最高のチャンスだという気がしている。

 人は、正常性バイアスではないが元の状態が最高だと信じ込んでしまいがちである。だが、コロナ禍はそう簡単には収まらない。とすれば、環境に応じた新しい仕組みを作り上げていき、それをどんどんと広げていけばよいだけである。サービスは、それを求める人がいるから成立する。サービス提供の容易さではなく、ニーズの深さを考える時に、先が見えてくるのだと思う。