Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ダウそろそろかも

 毎度毎度感覚的で根拠のない書き込みだが、リーマンショック後ほぼ安定して上げてきた株価(http://bigcharts.marketwatch.com/quickchart/quickchart.asp?symb=djia&insttype=&freq=1&show=&time=13)ではあるが、なんとなく下がりそうな感じになってきたように思う。アメリカの経済状況はマクロ的には順調で、PERなどもそれなりに推移しているようだが、個人的な感覚としてはあまりいい感じを受けていない。
 かなり前に書いたが、私は以前より金融緩和による金余りが引き起こした株価上昇には、どこかで逆噴射が生じるのではないかと考えている。繰り返しになるが、これはあくまで個人的な感覚の問題なので根拠などない。当たるも八卦当たらぬも八卦の世界であることはご了承いただきたい。ただ、その力強さに限界が来つつあるのではないかと思うのだ。

 そもそも、暴落なんて実際にいつ生じるかは予想できない。地震予知と似たようなものだと思う。だが、いつまでも永遠に来ないものではないのもまた事実。バブル崩壊(1991-1993:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E5%B4%A9%E5%A3%8A)アジア通貨危機(1997-1998:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%8D%B1%E6%A9%9F)リーマンショック(2008:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF)が、多少の時期のずれはあるもののおおよそ10年ごとに生じている。それが根拠になるものではないが、錬金術が徐々に剥がれ落ちそうな雰囲気を感じている人は少なくないのではないか。
 トランプ旋風が最後の徒花のようになるのか、あるいは何らかの方法でもう一花咲かせるのかはわからないが、私個人の感覚はそろそろ循環に一区切りが来るのではないかと認識している。

 実は数年前よりEUも中国も、経済を取り巻く状況はかなり悪くなっている。そのことを報道するあるいは主張する人は数多くいたが、現実にはなかなか中国経済が壊滅的になることも、EUが大きく分裂することもなかった。それを人々の努力で乗り切ったというよりは、先送りができる限り続けてきたと考える方が良いように思っている。
 もちろん、私と違う認識の人もいるだろう。また、数年後に私の認識が間違っていたという可能性も低くはない。だが、今回私が指摘するのは経済だけではない国際状況のきな臭さを感じ取ったと思ったからである。何度も繰り返すが、ここに書いていることはあくあまで私の空想である。実際、アメリカの株価は史上最高値を更新している。
 ひょっとすると、ソフトランディングができるかもしれない。あるいは、全く何もなかったように今後も経済は流れ続けるのであろう。だが、私の直感がここで何かを書いておいた方が良いと言っているようだ。私の予感が決定的なものに成るのか、あるいは短期的な調整になるのか。それも正直言って自信はない。

 これはあくまで勝手な予想である。実際、私がきな臭いと言った銭洲海嶺(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E6%B4%B2%E6%B5%B7%E5%B6%BA)も何の問題も生じていない。とりあえずは、思い立ったように書く無責任な私の予想がどうなるかを生暖かく見ていていただければと思う。
 それはいつだと思うのか? そんなことはわからない。ただ、ちょっと気持ち悪いのである。

足元を見る時代

 社会は期待と現実の狭間で揺れ動くもの。まさに株価において典型的に現れるように、人々は期待により現実よりも少し上の夢を許容すると共に、さらにより大きな夢を追いかける。しかし、夢追いはいつまでも続く訳でもなく、個人としてもいつかは目の前の現実と向き合う時代が来る。こうした状況は個人の集合体である社会でも、大枠において同じではないかと思う。
 現実は全く追いついていないが夢が突き進む胎動期を経て、夢に少しずつ現実が近づいていく成長期。現実と夢の距離が縮まらなくなる停滞期を過ぎ、夢のレベルを切り下げ現実に近づける衰退期。現代の日本社会を考える時に、個人的なイメージとしてはその衰退期ではないかと感じている。最も衰退期が悪い暗黒の時代であると言うつもりはない。

 こうしたサイクルは基本的に循環する。衰退期の次には再び胎動期が現れる。衰退期から胎動期に移るには何らかのカギが必要になると思ってはいるが、どちらにしても衰退期を経て新たな胎動が感じられ始める時、人々は新しい夢を見始めるのである。だからその流れ、社会的なバイオリズムと言っても良い。それにあった方法論や思想がその時期に受け入れられやすくなる。
 もちろん経済が壊滅的になったり、あるいは戦争の発生等によるサイクルの破壊があれば、その流れは大きく変わるかもしれないのだが、少なくとも好況不況の流れと同じように社会にも人々の考え方にも大きな揺らぎが存在している。
 こうした社会変動のスパンは人間の一生からすれば少し長いものであるため、私達は経験ではそれを適切に理解することは難しい。もし仮に私が思うように今が衰退期だとすれば、それを抜け出すための鍵あるいはきっかけを生み出すための何をすべきかを真剣に考えなければならない時代なのだと思う。

 逆説的な話にはなるが、夢を現実に近づけざるを得ない時代だからこそ、そんな時代であっても掲げたくなるような素晴らしい夢と、あたかもそのためにする努力は惜しくないと思わせるようなロードマップが求められるのではないかと感じている。
 実はその時、既存の概念は役に立たない。現在までの停滞の継続を乗り越える新たな概念が求められる。例えば、保守やリベラルとか、民主主義か社会民主主義なのかと言う既存の概念の延長伝上では、このループを新たなサイクルに引き寄せられないのではないかと思うのだ。おそらく突然変異のように、連続性を持たない何かが生まれる必要がある。

 そうは言いながらも、人類の確立してきた統治体制などたかが知れている。神権政治、合議制、独任制、部族制、貴族制、封建制君主制、共和制、民主制、他にも分類方法はあると思うし、細かなケーススタディはいるいろとできる。社会としての生産性が低い時代には強権的な政治体制が生まれやすいと思うし、逆に言えば食うに困らない社会は争いが生じにくく、合議的な体制になりやすい。
 同じ民主制の中でも、権力を集中した方が効率的で丁度良い時期もあり、逆に権力を分散させてお互いに牽制し合わせた方が良い時期もある。全ては社会や世界の状況により変化するものであり、確定的に最適なものは存在しない。
 次の政治体制や統治体制がどのような形になるのかまでは、私の能力では全く看過できないが、少なくとも何らかのパラダイムシフトが必要になっていくのではないかと思っている。しかし、そうした大きな変化は狙って起こせるものでは無い。狙ったそれは、あくまで既存の概念から離れ得ない。突然変異は、環境の変化に突如として合致する形で発生する。
 とすれば、私達が今見るべきは本当に意味で私達を取り巻く環境がどうなっているのか、同時に私達自身がどんな状況にあるのか。この両者を常識を振り払って考えてみることではないかと思う。

 私達は、こんな時代だからこそ大きく掲げられる夢を生み出すために、今までのしがらみや凝り固まった考え方、主義主張を離れて、一度自分自身をそして自分が生きている社会を、それらの足元を忌憚なき目で見なければならないのではないだろうか。

民進党の位置づけ

 私は個人的に民進党の復活を期待してきた。もちろん今の民進党に国政を担える能力があるとは全く思わないし、掲げる政策を現時点で強く支持するものでは無いが、筋道の通った国会での論戦が行われることは何より日本にとって必要なことだと認識しているからだ。だが、現状の国会議論や国会外での民進党議員の振る舞いをニュース(http://www.jiji.com/jc/article?k=2017022201150&g=polhttp://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000094892.htmlhttp://www.sankei.com/smp/politics/news/170222/plt1702220022-s1.html)で見るにつけ、それに期待するのは無理ではないかと心底感じ始めている。
 こんなことを書けば、「今までわからなかったのか」と笑われるであろう。私は民進党(かつての民主党)を支持していないし、担ぎ出す政策を否定的に見ているケースが多い。特に、一部の所属議員の考え方には全く同意できないと思っている。だが、良い政策を掲げればそれを評価すべきだとも思っている。
 問題は、それらが評価に値する議論と成っているようにい見えるのかということだ。国の施策が上手く進むためには一定のレベルの高い議論が国会で行われる必要がり、それが自民党の派閥間で擬似政権交代として生じる状況は必ずしも良いことだとは思っていない。それ故に良質で能力の高い議員が少なくとも何人か民主党から輩出され、国会において意味ある議論がなされて欲しいと願うのだ。それ故の期待を抱いてきた。

 今、リベラルと自称する人たちの力が世界的に弱まっているように感じる。いや、私が感じるまでもなく世の中がそう動いているのは間違いない。そのことについては幾度もここで触れてきたように、リベラルが彼らの理想とするものと現実の間を心理的に埋められなくなっていることにあると思う。国家や経済の成長期には、彼らの掲げる夢はポジティブな心理補正により、現実との乖離を飛び越える説得力を持ち得てきた。
 同じようなことは、EUにおいても言えるかもしれない。EUという巨大な動きが人々の心理的な期待感を抱かせ、それが前に進んでいる間は夢を追いかけることに疑問や不安を大きく抱くことはなかった。しかし、一旦その問題が明らかになり、あるいは不安が前面に出始めた時、夢のみを語るだけでは期待をつなぎとめることはできないのだ。

 もっとも、現状の民進党の状態はもっと悪い。掲げる夢すら明確ではない。民進党の主張を聞いていても、少なくとも私は彼らが将来的にトータルとしてどんな日本をめざし、そこに向けてどのようなステップを踏もうとしているのかが見えてこない。もちろん個別の主張はわかる部分もあるが、政党としてのビジョンは個別の主張からでは十分に読み込めないのである。
 そしてこの不確定な混乱の気配が感じられつつある社会において、人が信頼できる筋道や行動が少なくとも現在における民進党の主張や行動からは見えてこない。そのことを端的に表している言葉が、ネットで揶揄され今では一部メディアでも使われている「ブーメラン」であろう(https://matome.naver.jp/odai/2140270796898079801)。
 彼らの主張は政権時と現状で大きく異なっており、首尾一貫していない。もちろん過去の考えや行動が間違っていたならば、それを変えることは全くおかしなことではないが、少なくとも明確な方針転換の宣言とそのための理由を説明しなければならないだろう。さて、それをきちんと聞いた人はどれだけいるのであろうか。少なくとも私は、意味のわからない自己正当化的な言い訳こそ聞いたことはあっても、姿勢が変わったことを示すわかりやすい説明を聞いたことはない。

 要するに、民進党がどこに向かっているのかという目的地が曖昧な状態で、凪の海であればともかく荒海で舵取りを任せたいと思うはずがないではないか。すなわち今の民進党にないのは信頼感である。それを付け焼刃な批判や行動で得ることなど不可能だ。そして、下野後の彼らが見せてきたのは長期的な信頼感醸成の姿勢ではなく、短期的な人気取りの姿なのである。
 さらに言えば、自民党等の対立姿勢という思考が前に立ちすぎており、共産党との連携等の自らの首を絞めるような行動にまで及んでいる。正直なところを言えば、民進党に見えていないのは「日本」であり「多くの国民の心」であい、そして「自分自身」ではないかと思う。

 現時点では日本維新の党は民進党を超える支持は得ていない。私も維新の会の全ての政策にこれまた賛同するものでは無いが、橋下氏というアウトロー化した偶像的存在を広告塔に立てながら、それ以外では地方行政ではあるが地道な動きを進めているようにも見える。
 もう少し時間が必要かも知れないが、気づけば民進党は空中分解で残存勢力が泡沫政党を維持すると言うことにもなりかねないのではないかと予想する。良くも悪くも橋下氏の吸引力でスタートアップを実現した維新の会の方が、政党として着実な歩みや信頼感醸成を重ねているように見えるのである。
 小池新党ができるかどうかはわからないが、地方政党の共同体としての政党が成立すれば、更に言えば母体となる連合の信頼をつなぎ止められないような状態が続けば、そう遠くはない時期に逆転現象が見られるのではないだろうか。

 蓮舫氏を党首に担いだあたりから、民進党の迷走が大きくなったように感じる。もちろんその前も、政党としてまともな政策を行えるような感じは受けなかったが、今の体制を不満に感じている議員も多いのではないか。政党としての骨格を作り下げることができず、その上で吸引力を失い基礎票を失えば、先に見えているものは明かである。
 大手マスコミの、民進党不祥事をあまり取り上げないというささやかなサポートも、ネット社会の今ではあまり意味を持たなくなった。結局は多くの国民に届き理解してもらうような政策、姿勢を基本に戻って行う以外に道はないのであろう。
 声を張り上げて政権を詰問すれば認められるという時代はもう戻ってこない。

不倫と幼さ

 近頃、芸能人たちの不倫報道が華々しい。かつては芸人は別世界の人間として、芸の肥やしになると許容する時代もあっただろうが、現代社会においては私が思うに過剰な厳格さを義務付けている様な気がする。もちろんこれは不倫を推奨しているわけではない。また、夢を売ることで報酬を得ている芸能人たちが、夢を売れなくなれば地位を追われることはある意味当然であり、報道の話題性云々よりはその先に再び社会に受け入れられるのかということが問題であるのもわかっている。
 ただ実際極論を言うならば、現代でも芸の力が突き抜けていたなら十分にやっていける可能性はある。確かに、一部マスコミやネットの執拗な追求は甘んじて受けなければならないが、それを跳ね返せるだけの力を芸は有していると思うのだ。もっとも、「会いに行ける」「身近な」を売り文句にしている現代の芸能界では、一般社会との違いを理由に自立などできないというのも現代ならではの流れかもしれない。芸能界は芸のみを突き抜けさせることから、リアリティにより人々の心をつなぎとめる方向に変わってしまっているのだから。

 ところで、現代の一般的な社会通念としては法律的にも倫理的にも不倫が許されない。だが、離婚率が婚姻数の1/3にも届く時代、あちこちで不倫に関する話題が巻き起こっているのも事実である。火の無いところに煙は立たない。情報が多く漏れ出すということは、それが蔓延しているかあるいはそれを望む潜在的な声が大きいかのいずれかである。学級委員長的に不倫などごく一部の出来事であって、単に興味本位の都市伝説的なものではないかと言いたいとkろではあるが、幽霊やUFOなどと比べてればずっと現実的な事象であろう。
 ただ、倫理面の慣習より不倫は常識的に日陰の存在とされ、表面にはあまり出てこなかった。ところが、ネットの発達(しかも匿名情報の氾濫)によってそれが急速に身近になった。情報の拡散が先なのか、それとも実情が先なのかはわからない。しかしながら、多くの人は良きにつけ悪しきにつけ関心を抱くものになっている。溢れるのがゴシップ記事としても、それを望む無意識の何かが存在していると言ってよい。もちろん離婚理由の大部分が不倫(新たな恋愛)によるものではないが、こうした現状にどのような状況が含まれており何を意味しているのかについて少し考えてみたい。

 まず、私が不倫に関する情報が社会に広がっている状態を見て最初に考えたことは、反応が「子供っぽい」というものであった。通常は不倫というキーワードから想起されるのはどろどろとした大人の恋愛模様ではあり、それ故に子供っぽいというのも奇妙な感じもしよう。そもそも性を扱うということ自体をもって、子供には適さない内容だと考えることもできる。だが物事の適用性ではなく行動そのものを見ると、理性で感情を抑えきれない状態を仮に精神的に成長できていないとした場合、建前ではあっても社会的に許容されていないこうした問題が生まれてくるのは、その人の心(精神)が大人になりきれていないからと考えても良いのではないか。
 確かに、感情を抑えることがそのまま大人の証拠と定義するには違和感のある人もいるだろう。私自身、日々自分が持て余す感情に振り回されることも少なくない。また、時には俳優など感情表現の利用が職業や専門の道で求められることもある。だが一方で、抑えるべき感情と吐き出しても良い感情を使い分けることは社会生活を送る上でのマナーである。社会というものは多くの異なる価値観や考え方を持った人間の集合体である。それを適切に維持していくことは、少なくとも大人たちの義務であると言ってよい。
 あるいは表の顔と裏の顔を使い分けているというケースもある。感情を抑えた表とそれを振りかざす裏。だが、裏が無ければ生きていけない訳ではない。だとすると、生きていくために必須のものとそれ以外のを区別できていないと考えることもできる。不倫は自分が社会生活を送るために必須の条件なのか。そこに問題の根本があるのではないかとひとまず考えてみた。

 ところで、そんなことを言えば恋愛どころか趣味も必須ではないだろうと考えるのは当然だ。生きていくために求められるのは物理的な条件や社会的な条件以外に、自分自身の心の安定が何より重要である。私たちは目標や目的なしでは人生を漂ってしまう。不倫問題を考える時に、満たされない心を満たすための一つの方法としてそれを選択していると考えることは理解しやすい。問題は、それが本当に最も良い方法なのかということにある。
 だが、止めたくても止められないのが恋心。困難さが目の前にあるほどに燃え上がることも多い。さらにそれを深く辿れば、最後には本能的な性欲に行き着く。人間に性欲があり、それが子孫を育てていくという本能から離れるほどに、不倫が生じる可能性は高まる。いや、考え方からすればより良い相手を探して放浪することも本能の導きかもしれない。
 現実の不倫の形態については様々なケースがあると思う。最も容易に想起できるアバンチュールから、暴力等からの逃避の場合もあれば、経済的理由のものもあろう。最後は不倫と呼ぶべきか商行為と見るべきかは判断しづらいが、一概に言えないことだけはわかる。

 このように満たされない何かを埋めるために恋愛に溺れるという姿もあり、逆に地位や権力並びに財産といった余裕があるからこそ自分を満足させる虚栄心も存在する。ただ、どちらも満たされない理想の自分と現実の自分のギャップを埋めるために恋愛(そう呼んでも良いのかわからなくもなるが)を利用している様にも思えてくる。
 現代で言えば愛人や過去においては側室と呼ばれる関係は一定以上の財産が無ければ成立しない。それを推奨するものではないが、社会や人間が完璧ではないことを知っている身としては、それを断罪することなどできやしない。だが、それが幸せなものかと問われれば必ずしも言い切れないとは考える。ベストを追い求められないからこそ生まれてくる存在。不倫も同じような存在と考えても良いかもしれない。

 ここで、私が考える理想の恋愛形について書いておこう。もっとも、私がそれを実現できているという訳ではないので、あくまで理想と割り切ってほしい。それは、お互いに与え与えられる存在であることであり、同時に何かを相手に与えるために努力する状態を意味している。まずGIVEがあって、その後にTAKEが来る。一方的に与えられるのも異なるし、相手から与えられることのみを探し求めるのも違う。
 人は子供時代には親から一方的に与えられる存在である。幼ければ、当然一人では生きていくことはほとんど不可能であり、親に依存するのは自明のことである。一方で親は満足感を子供から得ることは有れど、それが感じられなければネグレクトへと一直線となる。実際には倫理観や社会的な立場が抑止力として働くが、村社会が消えてそれが働きにくくなっているのが現代の特徴とも言える。

 さて、話をもどそう。先ほど例示した愛人や側室は、財産的にはそれを持つ側に寄生するものである。対価として精神的な満足感を逆に与えられるのであれば、歪だとは思うが相互補完的な関係は成立する。GIVE&TAKEの関係としては満足している。ただ、先ほど私はGIVEが先でTAKEが後と書いた。これは、(恋愛に限らず)相互補完関係の成立ではなくその意地を意識してのものである。問題は、関係性を維持し続けるモチベーションがどこから生まれているのであろうかということだ。
 本来、恋愛は刹那的であるかどうかを問題としない。理想の形として永続性を夢想はしているものの、理想を追求することが最初からの目的ではない。逆に考えれば、不倫とは結末を考えない恋愛の典型とも言える。先ではなく現在を考える。だが、それのみを繰り返すことは冷静に考えれば生産的ではない。

 例えば、既婚者でも夫婦関係が上手くいっていないケースは多々あろう。それが悪いというつもりはない。実際理想を掲げて、あるいは大恋愛を経てきたとしても、その感情が維持されるづけるとは限らない。むしろそんな状態が継続する方が稀であると思う。
 しかし、抱える問題点を別の恋愛で紛らせるとしても、それは最初の結婚時と基本的には同じではないかと思うのだ。もちろん、相性が合わなかったという事はあるだろう。本当に解決できないような状況があれば、離婚という選択肢は可能である。要するに、不倫は一時しのぎの可能性が高いと思うのだ。
 確かに、略奪婚などという不倫から始まる夫婦もある。社会的な非難は別にしても、それを一時しのぎとは言い切れない。だが、長期的な展望をもって行うものなのか、感情の赴くままに行うのかによって考え方は異なるように思う。

 少なくとも、一定以上の覚悟を決めて行うケースを幼いとは言い難い。だが個人的な感想を言わせてもらえば、そこまで覚悟を決めてそして将来を展望してのものは多くはあるまい。そして、破滅的あるいは刹那的なそれは、結局のところ短絡的な指向や判断により導き出されたものと感じるのだ。私が「子供っぽい」と呼んだ部分はまさにそれに当たる。
 これは、人生における覚悟が衰退していることが関係しているのかもしれない。社会の発展に伴い、あるいは文化の変遷に伴い、収入問題などはありながらも生きて行くことは容易になり、家を守るという概念はどんどんと消えつつある。生きていくのに必死にならなければならない状態は決して素晴らしいとは言えないし、家に縛られた生活は窮屈極まりない。どちらもそれを無くせばより良い社会が来ると考えてきた。
 だが、現実に手に入れた時に同時に失ったものがある。その一つが覚悟ではないだろうか。もちろん江戸時代の様子を見れば、現代で不倫と呼ばれる以上の様々な事例があるようだし、今私たちが知る倫理観とは異なるものが存在していた。すなわち電がのそれを考える時、実は現実と理想のギャップは現実がおかしな方向に行き過ぎているのか、あるいは理想を変えるべきなのかと考えるに至る。

 ただ私が男性だからであろうか、あるいは個人的な趣向のせいかもしれないが、こうした問題を考える時に精神的に大人として振る舞いたいという気持ちが先に立つ。人それぞれ様々な理由があるだろう。厳しい状態もあるだろうし、不満もたまることがあろう。だが、少なくとも逃避の代償として不倫というものを用いて束の間の不安の解消を得たいとは思いたくない。そう考えてしまうのだ。
 それは恋愛を、人生の昇華ではなくパッチワークのように使用しているように見えるから。それはすなわち、自分自身の葛藤を他者に押し付ける行為に見えるから。もちろんこれは私の個人的な視点に過ぎない。不倫の全てがこうした代償行為とは限らないのだから。だが、仮にその要素が大きいのであるとすれば、やはり私が感じた「子供っぽい」という感想を変えるには至らないように思うのだ。これは、社会が自分自身で責任を取らないことを正当化しやすい時代が来ているからなのかもしれない。

選択肢

 幸せとお金に関する議論はいつもよく話題にされる。お金があるからと言って幸せとは限らないが、幸せを得るために適度なお金があった方が良いとは良く聞く話である。私の拙い人生経験でも、お金は幸せの目的とはならないが、それを得るための手段としては確かに有効であると思う。そして実際お金を手段と考えていたにも関わらず、結果的にお金に執着して目的化してしまった時に失敗を重ねているような気もする。
 そもそも幸せとお金という二つの要素を対立構造として見るのが間違っているのだが、それでは幸せは何により評価されるのであろうか。幸せの感じ方は人それぞれの価値観が反映されるため、明確にランク付けを行うことはできないのだが、少なくとも不幸でないことの要因の一つとして多くの選択肢を持っていることは挙げられると思う。

 例えば、人生に絶望する時にはその人は多くの選択肢を有していると言えるだろうか。おそらく、選べるものが無くなった時に人は絶望する。一方で、高齢になるほどにその先の選択肢は失われていくが、だからと言って全ての高齢者が不幸なわけではない。だから、選択肢があることがイコール幸せに結びつく訳ではないとも言える。
 しかし、お金があれば様々なチャレンジが可能となることは厳然たる事実である。お金がなくて進学を諦めれば、全ての不幸を導く訳ではなくとも一時的な失望感はあるだろう。そのまま人生において選択肢が広がることが無ければ、やはり楽しい人生であるとは言い難い。
 他方、お金があれば幸せとは限らないことには最初に触れた。そこでは選択肢が存在しない訳ではないのだが、選択しない(あるいはできない)状況になってしまう場合が考えられる。選択することに価値が置けなくなっているような状況と言えばいいだろうか。それはすなわち選択肢を楽しめなくなっている状態を指す。

 様々な選択肢とは言っても、ポジティブな選択肢もあればネガティブなものもある。当然のことながらポジティブな選択肢は前向きな心に大きく寄与し、仮に選択肢が多くともそれが全てネガティブなものであれば精神的な忌避感がどんどんと増大していくだろう。
 幸せの一つの形態として次を期待できる状態があるとすれば、ポジティブで発展的な選択肢をどれだけ持てるかは大きな問題となろう。ところで、先ほど高齢者には選択肢がないと書いた。老い先短ければ選択できるものが少なくなるのは当然だ。だが、だからと言ってその人が不幸であるとは言い切れない。それは、思い出が未来の選択肢の代替機能を果たすからではないかと私は考えている。
 そのため、良い思い出を数多く持っている人は老いても不幸を大きく感じないで済む。老いた状態で数多くの不幸に直面すれば、良かった思い出を上書きされてしまう可能性はある。また、良い思い出が少ない人は死に直面するに際して怖れを抱きやすいのではないか。

 これはまだまだ私の推測にすぎない。若いうちには将来に対する夢、そこに至る道筋となる選択肢が数多く存在することが心を満たしてくれる。もちろん、全て理想の道を進める訳ではない。自分自身の選択により、あるいは自らを取り囲む環境のため、適切な選択肢を選べずに夢から遠のくこともあるだろう。だが、新しい選択肢を見出すことができれば再びチャレンジすることができる。
 結局のところ、夢と選択肢は非常に近しい存在なのだ。私たちは夢のことをいつも考えて話題にするが、本当にめぐり合うのは夢に至るための分岐である選択肢である。そしてそれに常にチャレンジし続けられる人生こそが、夢には至れなくとも面白い人生ではないかと思う。
 様々な事情から選択肢が閉ざされしまった人は、不幸な状態からなかなか抜け出せなくなる。選択肢が狭まった理由は、自分自身にあるかもしれないし、場合によれば誰かに強制されているかもしれない。だが、もし本当に先が見えない状態になったとすれば、自らが今選べる選択肢が一体何なのかを自分でも考え、そして他の多くの人たちに意見を聞くことが重要となる。

 人を絶望に陥れるには、その人の選択肢を奪っていく(無いと思わせる)ことが間々行われる。時には洗脳的な手法も使われるのだが、精神的に弱った人は目の前に本当は存在する選択肢を見つけることができなくなる。夢は遠い先にあるが身近には常に選択肢があり、選択肢自体には幸福を呼び起こさせる機能はないが、それを選択する行動には夢を実感させる力がある。
 私たちは、自分に多くの選択肢があることをもっと喜ぶべきであり、選択肢を増やすための努力を行うことが重要だ。最短で正解(理想的な結果)に至る道を選べるなどということは、よほどの直観力でもなければありえない。だが、数多くの選択肢を有していればいつかは理想に近づくことが可能となる。

 人は死に近づくとき、そこに抱く夢は未来ではなく徐々に過去に移っていく。それは自らの体や頭の衰えに気づき、あるいは社会的な地位の喪失を実感するなど、目の前にある現実を受け入れることで為されていくのであろうと思うが、そこに至るまでの間はより良い選択肢を多く有することに気を向けても良いのではないかと考える。

フリーランス

 そろそろ就職戦線が動き始めている。経団連の取り決め(http://www.keidanren.or.jp/policy/2016/081.html)はあるものの、一部業界では有名無実化しているというのが実情であり、早いところでは既に昨年のうちに内々定が出ているとも聞く。中小企業では大企業の採用から漏れた人材の中から探すために、大企業が決まるのを待っているというところもあるようだ。
 ところで、私の学生時代には教授等の推薦により就職活動を行うというスタイルであった。こうした手法は特定の学部や大学に限定されていたのかもしれないが、現代の大学生の苦労を考えるとかなり労力がかからないものであったと思う。このような推薦システムはあっても、もちろん推薦のないよりステイタスの高い企業にチャレンジすることは可能だ。だが、一般には学業成績などを参考に教員から勧められた企業に応募して、かなりの高い確率でその企業に決まるというイメージを私は持っていた。
 実は、今でも似たような仕組みを保持している企業(あるいはセクション)もたまに耳にする。信頼できる大学教授からの推薦で候補者を絞り、その中からセレクトする。確かに企業としてもかける労力からするとうまみのある方法である。ただ、学生側からすれば企業が信頼する大学にいるかどうかという第一関門があり、次に教授等が信頼されているかどうかというもう一つの関門をくぐる必要がある。

 さて、著名な大企業やあるいは安定した公務員になりたいという人は今も多い。公務員については、一時期に比べれば地域や職種限定かもしれないがかなり倍率が下がっている(2〜3倍程度)という現実もあるようだが、著名企業では100倍を超える状況があるのは当たり前になっている。給与的には大企業勤務の方が高いだろうが、安定性で言えばまだまだ公務員に分があるのではないだろうか。
 さて、そんなに多大な努力をして大企業に入ってどんな魅力があるかといえば、繰り返しになるが世間と比較すると高い給与がある。中小企業の就職することと比べれば生涯年収は大きく異なるであろう。私は大学院進学はせずに公務員になったが、院を出て大企業に就職した同級生との年収差は最初からずっと200万円くらいの負けで、その差は10年を経ても決して縮まることがなかった。仮にそのまま40年が経過するとすれば、生涯年収で8000万円の差がつく計算となる。

 一方で、日本の大企業が決して倒産しないなんて言えないことは誰もが知っている。近年、倒産などが考えられなかった企業が危機になり、時に消え、時に買収されている。さらに景気が悪化すればリストラなんて話もあり、企業内での生き残りをかけた争いは続く。それは昇進・出世レースとして継続し、「サラリーマンが気楽な仕事」というイメージはもはやないだろう。終身雇用など、もはや幻想に過ぎない。
 さて、現在ブームは下火になっているが、一時期起業家ブームが巻き起こったこともある。自分で会社を立ち上げるというのは大きな夢であるのは間違いない。ストックオプション等により事業が成功すれば大金持ちになれるのは、アメリカの新興企業だけではなく日本でも規模はともかく見られる姿であろう。
 この企業については、別に大企業な入る様な学歴が無くても可能である。極端な話を言えば、中学卒業でも一定以上の規模の会社を経営して財産を持つことも不可能ではない。不可能ではないが、容易でないことは自分の周りにそんな人が多くはいないことでわかる。

 だが、サラリーマンは大企業であっても役員クラスにならなければ、通常それほど大きな給与を得られるものではない。一部の大企業役員では年収1億というレベルもあるだろうが、中小企業でも成功すれば億以上の年収を得られるとすればそれが一つの道かもしれない。
 もう一つ、フリーランスという生き方もある。こちらは上記の様な収入までは得られないかもしれないが、専門家として下手をすれば一般サラリーマンよりは高い報酬を得ることもできる。ただし、そのためには二つ重要なことが存在する。人と同じレベルではないことと、人がやらない儲かる仕事を見つけ出せること。
 中小企業経営もフリーランスも、私の個人的なイメージとしては近い立ち位置と考えている。いずれも、大企業にはできない機動力と小さな市場を見つけてそれを独占すること。規模の論理には勝てなくとも、フットワークの軽さは大企業にはない大きな武器である。

 一方で仮に独立したとしても、企業時代と同じことをしていればそれほどの大儲けにはつながらない。むしろ、下請け的な位置になってしまえば苦しむことになりやすい。世の中は、誰もが儲けを探している。如何に楽に、かつ効率的に稼げるかを競争しているのだ。だとすれば、大企業と同じ土俵で勝負するよりも大企業には出せないアイデアで勝負するというのが戦略としては正しい。
 ところで、このアイデアについて良く勘違いしてしまうことがある。変わったアイデアは世の中に数多く存在するし、それを生み出すこと自体はそれほど難しくはない。だが、儲かるアイデアを見つけ出し、ありは生み出すことは容易ではない。それをひらめきで感じ取る天才もいるだろうが、大部分の人は様々な事例を試し、そして失敗する。トライアンドエラーを繰り返して、ようやく自分が進むべき道に辿り着くものだと私は思う。
 アイデア勝負ではあるが、成功するアイデアを見つけ出すまで(時には確立するまで)根気強く続けること。それが何よりも大切ではないかと思う。

 私は一時期自分で会社も経営していたが、好きなことを仕事にしているだけでは必ずしも儲からないということを嫌というほどに感じさせられた。自分が好きなことに取り組むのではなく、世の中に受け入れられる仕事を好きになること。好きになるのは受け入れられると感じた時、あるいは確信した時で十分ではないか。
 だから、最初は好きなことからスタートしても良いと思うのだが、そこで壁に当たった時に好きなことでは食えないと諦めるのではなく、食える仕事を好きになると切り替えられるのが大切ではないかと考えている。世の中には求められている仕事は探せば山ほど存在する。もちろん、全てが高い収益を見込めるものではないかもしれないが、儲かる仕事のなかで求められるものを探すのではなく、数多くの社会に求められる仕事の中から儲かる部分を見出すというスタンスは重要なのだ。
 それは自由を持っていなければなかなか辿り着くことができない境地だと私は思う。フリーランスは、その境地に最も近い場所にあるのではないかと考えている。クラウドにて各種のフリーランスが集まるという仕組みでも良い。あるいはフリーから会社に発展させても良い。

 まだ、企業を飛び出すというチャレンジをする学生は多くはないだろう。また、景気が悪くなるほどに起業する人も少なくなりやすい。だが、会社は個人の安住の地ではなくなりつつあるというのが個人的な見解である。それはある時突然明らかになるような気がするが、仮に企業に所属していてもいつでも独立できるという心構えは重要だろう。

トランプ政権の意味

 トランプ旋風は形を変えながらもなかなか吹き止まない。希望も失望も含めて、嵐のように世界中をドギマギさせている。「アメリカが分断してしまった」と現状を嘆く声もある一方で、停滞を打破する劇薬と期待する声もある。基本的には、社会的なインパクトのある事件・行為や人物は、良い面と悪い面が極端に振れやすい。ただ、今の時代において聖人君子が易々とことを為すことは有り得ない。全ての人は複雑に組み上げられた社会と何らかの形で結びついており、波風を起こすことで誰かに不利に働き、一方で誰かは有利な立場になる。
 閉じた国内社会ではそのようなゼロサムとなりやすいが、国の外に敵を作れば国内的な対立を解消することに多少は寄与できる。そのもっとも典型は中国や韓国であるが、国内的な矛盾を外敵に目を向けさせること(それを演出すること)により誤魔化そうということでもある。
 もっとも、トランプ的には現在のアメリカの有利なポジションを利用して、動きづらくなった新しい世界秩序を作り出そうとしているようにも見える。トランプ本人が意識してそこまでの大きな戦略を描いているとは思わないが、それでも本能的にはアメリカが自ら現在有する力を最も振るいやすくしようと動いている様には感じる。取っている方法が功を奏するかどうかは別として。

アメリカファースト」という言葉は、まさにそのためのスローガンとしてピッタリであろう。だから、今後もかつては利用価値があったものであっても、現在利用価値が低下しむしろアメリカに害をなすと考えられるものを切り捨てていく可能性は高い。それは、過去のしがらみに囚われないトランプだからできることというのはあながち間違いではない。
 NAFTA(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%B1%B3%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8D%94%E5%AE%9A)も、当初はアメリカにとって自由貿易を推進した方が都合がよかったから締結されたわけだが、都合が悪くなればそれを破棄するというのは道義的には問題があるようにも見えるが、自己の利益を最大化するという意味では行動として一定の合理性を有している。私自身、君子豹変するのは間違いではないと考えているため、現状が妥当ではないと考えれば方針を変えてより有利な状況を作ろうとする判断自体は間違っていないと考える。私は当初よりTPPはアメリカ議会が否決すると予想してきたが、それをトランプが先んじて実施したのは既にニュースとして大々的に取り上げられた。
 また現状変更の標的として、国連がターゲットになることもも全く違和感はない(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20131210/1386601339)。国連が公正であるなんてこと期待する訳ではないが、国際的な調整機関ではなくプロパガンダ機関になりつつある状況では、少なくとも関与を減らしたいと考えるのはおかしくないと思う。

 また、ポリティカルコレクトネス(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9)もトランプ旋風を語る上では避けては通れない。これについては、倫理性や公正さと絡めて主張されることが多いが、私はこれを推進することは社会正義の実現や差別の抑制にはつながらず単なる問題の先送りでしかないと思っている。例えば、「メリークリスマス」の替わりに現在は宗教的にニュアンスの薄い「ハッピーホリデーズ」を用いたとしても、それは「ハッピーホリデーズ」にキリスト教的な意味が込められていないと感じられる一時期だけ成立する問題なのだ。ところが、実質的に「ハッピーホリデーズ」=「メリークリスマス」と認識する人が増加した瞬間にこの行為は全く意味をなさなくなる。これを突き詰めると、私たちは永遠に意味が張り付いた言葉を狩り続けるという徒労に従事することが義務付けられる訳だ。
 もちろん、差別的な用語を全て認めろという無茶を言いたい訳ではない。一時的な先送りも当面のパッチワークとして意味を持つと思う。だが、問題は言葉にある訳ではなく言葉に込める意味とそれをする行為に存在する。もちろん、思想が自由であるため、頭の中では差別的なことであろうが反社会的なことであろうが、推奨できる訳ではないが考えることが可能である。

 このような例に限らず、社会においては自由と差別のせめぎ合いはどんな時でも存在している。そして、これらのせめぎ合いの時々における落としどころは常に変化し続けている。ポリティカルコレクトネスが、社会において否定的に見られ始めているのは本来変動すべき境界を固定化しようとする動きだからではないだろうか。そう、決めなくても良いにもかかわらず新たな常識を作ろうとするおせっかいだと認識されているということ。
 むしろ、おせっかいのような善意的なものであればまだ良い。ところが、こうした動きが裏側では社会を誘導する一つの恣意的な方法論として成立し始めているのではないか、という疑念の感覚が多くの人に広がり始めていること。社会は、どんどんと生れる新常識に疑いを持ち始めた。そして、トランプはまさにそれを上手く利用してきた。確かに言葉は極端で酷いモノかもしれないが、新常識を作り上げることこそが既存メディアの権力基盤の象徴であったと多くの人たちが感じていることも繋がってくる。
 時代の変化が減少すると、そこに最適化する形での権益が生まれてくる。それが固定化していくことで社会的なひずみが増加していく。それが社会を変えようという流れになっていくのではないか。

 小泉劇場がそうであった以上に、トランプ旋風はこれまで常識と考えてきたこと(そう考えるように誘導されてきたこと)が常識でもなんでもなかったと認識させてくれる良いきっかけとなった。そもそもルールは作る側に有利に働く。だから、ルールを作る側に回らなければならない。しかし、それが上手くいかないのであればルール作りの枠組み自体を壊してしまえ。
 非常に勝手で傲慢な考え方だと私も思う。だが、多くはアメリカが打ち立てた国際ルール(一応、各国も合意してきた)に対して近年中国は好き勝手に振る舞ってきた。当初は発展途上国の姿を借りて、そして今は大国の力を誇示しながら。他方、日本はルールの中で最大化するように努力してきた。
 結局、国際社会はお花畑ではなくシビアな主導権争いが行われる場なのだという現実を、従前の裏側から表側に引き出してきたのである。これは誰にとって不利になるのか。おそらく多くの都合の悪い人がいるであろう。今騒ぐのは、それが自分たちにとって不利に働くと認識している人たちであるのは明白であろう。

 もちろん私としては、トランプ個人を支持したいとは全く思わないし、それほど遠くない時期(半年〜1年)で大きく支持率を落とすと睨んでいる(今ですら支持率は低いが)。その一番の理由は、論理的なものではなく彼の人間性を肯定したくないという感情的なものである。そして多くの人が既に予想しているように、彼の思いつきの発言の多くがあたかもブーメランのように跳ね返り、手痛いしっぺ返しを受けて現在の作戦を転換していくことになると思っている。その結果として、これもまた多くの人が予想しているように、共和党本流のサポートを全面に受ける形に変わっていくだろう。
 だが一方で、安易に従前の方法論や雰囲気により造られた常識的なものに流されない状況を作り上げたということに関しては評価する。もちろんそれは彼が明確に意図したものではないだろうが、結果論にすぎなかったとしてもそのことを多くに人に気づかせたことは大きな功績の一つだと思う。

 トランプを生み出したのは、時代の要請であろう。社会はおそらく大きく変わらなければならない時期が来た。だからこそ、トランプ政権が生まれた。運命論を信じる訳ではないが、歴史的に必然の中に現状が納まっている様な気がしてならない。もちろんそれを生み出したのは、多くの人々が抱き始めた疑念である。明確な証拠がある訳ではないし、あるいはテストのように正解不正解がはっきりしたものでもない。ただ、何かおかしいとした感覚的なものが広がり始めているように思うのだ。
 私は個人であり、社会集団のメンバー(市民活動家ではない)でもあり、そして日本国民である。だから、世界平和を希求するもののそれは日本の安寧があってからの話だと考えている。世界があっての日本ではなく、日本も一要素としてあった上で構成されている世界。

 人々は、国家を無くせるような世界が理想だと思ってきた。誰もが仲良くなれる世界を作らなければならないと思ってきた。確かにそれは正論である。だが、それはどうすれば作れるのか?
 精神論で、理想論でいくら叫んでも、現実を見る時に何の役にも立たない。世界の発展が目に見え、多くの人が未来は今よりも幸せだと考えることができる時代には、理想も一定の役割を果たす。しかし、世界の発展が停滞し始めるとバラ色だった理想は急に色あせていく。果たしてその時に、バラ色の理想論はどのように見えるのだろうか。
 世界的な政治体制の変化や、トランプ政権の誕生は全てこうした大きな流れの中から生み出されてきた。まだ、夢を見ることができる発展途上国の若者たちの方が生き生きしているのは、ある意味当然の帰結であろう。それと同じ気持ちを日本の若者に持てと言っても、ミクロでは可能でもマクロでは不可能である。

 これから、世界が現実をシビアに見るフェーズに入る。今後ますますリアリズムが台頭してくると思う。これは、世界の発展が曲がり角に来たことを示す一つの結果であろう。だが、だからと言って世界の歩みが止まる訳ではない。単に今までの常識が、必ずしも常識として成立しなくなる。単純にそれだけの事なのだ。
 そのことをきちんと理解できれば、別にこれからの時代が激動であろうが関係はない。きちんと適応していけるであろう。トランプ政権を生み出した時ぢあの流れは、は久しく続いた安寧の時代の終焉を告げると共に、甘い夢ではなく現実を見るように私たちに告げているような気がしてならない。

社会規範における理想と現実

 「ポリティカルコレクトネス(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9)」、トランプ旋風と同時に大きな話題となった言葉である。倫理的には正しいことではあるが、同時に理想主義すぎる面が社会を抑圧的にしていると感じさせたとする問題と言えよう。個人的なイメージとしては、この構図は宗教の教義に従順であることに似ていると思う。正しい理想(教義)は、仮に現実と矛盾するとしても優先しなければならないというスタイルである。
 そもそも、私はここで何度も書いているように「正しさ」という概念は相対的なものだと考えており、正しさに絶対性を与えるという行為には否定的である。それについては、法律も同様に現実と矛盾していることがあるだろう。だが、矛盾が一定以上になれば法律は改正され得る。要するに、法律により社会が享受する利益と不利益を天秤にかけ、利益が勝るように調整していく。そういう機能を有しているのが民主主義である。ただし、法治主義の原則により悪法であっても法律である限りにおいてそれは尊重されなければならない。これは、社会安定上必要とされるからであろう。

 問題は法律による明確な規制ではなく、曖昧な雰囲気により社会を縛りつけていく風潮の是非ではないか。それはある時には慣習と呼ばれ、ある時には倫理と呼称される。それ以外にも、韓国における親日を罰するという風潮もあるだろうし、なんとなく合意した(あるいは合意させられた)社会生活における法以外の規範を示している。
 この何となくについては、一定の意味がある場合もあろうし無い場合も存在する。規範では無く流行(ブーム)であれば短期間の隆盛後にいずれ廃れていくが、規範と認識された場合にはそれが時間と共に強化されていく方向性を持つ。一部のメディアなどは、これまでもブームを煽りそれを固定化すべく動いていたフシも感じるが、社会の認識が一定以上変化すれば規範には至らなくとも暗黙に支配している雰囲気が、一気にひっくり返ることもあるだろう。
 慰安婦問題や南京大虐殺なども、アンタッチャブルな規範に昇格させようと様々な動きが見られるし、同様のことは若干レベルが違うが反原発問題や沖縄基地問題でも見て取れる。

 ポリティカルコレクトネスも、いつの間にかアンタッチャブルな存在になっていたものではないかと思うが、その頸木はここに来て徐々に外され始めた。近年の典型的事例の一つには、欧州の難民受け入れ問題に対する言動があるだろう。トランプ氏が話題となる以前から徐々に進行していた。あるいは、イギリスのブレグジット(Brexit)も似たところがある。フィリピン大統領のドゥテルテ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%86)氏はトランプ大統領に輪をかけた様な発言を繰り返しているし、建前上の正しさは理解できものの我慢することができないという動きは、基本的に世界中に広がっている。
 今後も、EU離脱を掲げる動きは今以上に広がっていくだろうし、混乱の時代だからこそ本音での話が幅を利かせ始める可能性は高い。安定の時代には建前による統治や国際交渉が大きな力を持ち、変化の激しい時代には本音の交渉力が力を有する。ある意味において、今起こりつつあるポリティカルコレクトネスに対する反発という変化は当然のことかもしれない。

 さて、建前を規範と認識してしまうと大きな社会変化に追随できなくなってしまう。規範そのものが守るべき絶対的なルールと化してしまうからである。最も重要なことは、手間がかかるし面倒ではあるが、ルールについても時に応じて(問題点が持ち上がった時には)その妥当性を検証することであろう。この時、検証のための判断基準が規範におけるルールに準拠してはならないのはわざわざ言うまでもない。規範に従えば、そもそも再検証なんて何の役にも立たない無意味になものでしかない。
 しかし、こうしたバランスを取ることが実際には容易にできないのが社会を見ていればよくわかる。曖昧な雰囲気を規範のレベルに押し上げることを目的として、主義主張が用いられている事例が多いからである。主義主張には二つのタイプがあると私は思う。一つには、社会あるいは集団の雰囲気や慣習が実態とかい離している場合に、現実に引き戻すために用いるもの。そしてもう一つは自分たちの理想に対して人々の心を惹き付ける(逆に異なる主義主張を持つ集団には対立・反発する)ものである。
 宗教でも特に原理主義についてはまさに後者であるだろうし、左派系の主張も私には同じように聞こえる。凄く大雑把な話ではあるが、前者は現実を規範とし後者は理想を規範とする。本当に追い求めるべき先はその中間のどこかにあるのだろうが、主義主張が抱く強さが中間と言う立場をなかなか容認しない。

 私は社会の規範というものは長い時間をかけて確認しながら醸成するものであり、一方で同時に時代の変化に応じて少しずつ変わっていかなければならないものでもある。だから、規範と認識されるようなものであっても、時に応じて検証されなければならないと考えていることは先ほども書いた。ただ、唯一言えることは理想の規範は多くの人がその存在を必要とするものであり、多くの人に強制・あるいは押しつけるようなものは、法という形で明文化されるべきなのだろうと思うのだ。
 倫理規範というものも、これまた社会を円滑に回すための一つの有効な手段として存在している。それにより社会に不都合が生じる場合には、適宜再調整されなければならない。もちろん倫理規範として認知されてきた経緯には最大限の理解と敬意を表することは当然である。だが、同時に理想を追い求めすぎることは、現実に想定以上の負荷をかける。そもそも論として、倫理はそれ自身が目的ではなくあくまで手段なのだから。

次の戦争

 一部に、世界情勢は戦前の様子を呈し始めたとのネット上の意見を見かける。だが、私は既に現状は戦前どころか臨戦態勢に差し掛かりつつあると個人的に考えている。もちろんここで言うのはその全てが軍隊同士の攻撃を伴う意味での戦争ではなく、多くの人も聞いたことがあるようにサイバー戦から経済戦まで、武力以外の面を賭けた前哨戦のことを意味している。そして、本格的な戦争とはまだ呼べないレベルであれば既に世界各地で火花が散っている。
 むしろ武力中心の旧来的な紛争であるイラクやシリア付近のISを巡る争いの方が、今の時代の戦争としては特殊な存在であると考えた方がよい。また、非対称戦の典型であり欧米を震撼させているテロは、新しい時代の戦争の一つの類型と言っても良いのではないか。

 そもそも、我々が戦争と認識する姿や定義は過去の事例から来るものだが、その発生を望むものではないものの、仮定として考え得る次の戦争がかつてと同じような形態をとる保証はどこにもない。むしろ、過去のエントリにも書いたと思うが、武力抗争は戦争の主ではなく一部にすぎないと考えた方が良い。実は、過去の戦争においても情報戦により選挙区を有利にするなど、従属的な形ではあるもののその片鱗は確認できる。だが、これからの時代の戦争はお互いに同じ舞台で力比べをする公平な争いではなく、むしろ非対称な舞台での総合戦になると考えるべきであろう。同じ土俵で相手を打ち負かすという、あたかもヒーローコミックの様なわかりやすい勝利を目指すものとはならないと考えている。
 もっとも、経済戦争とは言っても外交舞台や経済的な交渉の全てを戦争と呼ぶのは正しくない。おそらくは、別の圧力を付加した形で双方が妥協できない交渉を始めることが、真の経済戦争と呼ぶべきではないか。お互いが妥協できるうちはまだ戦争と呼ぶには早い。

 ところで、現代の先進国では人の価値が昔よりも随分と高くなってしまった。大規模な戦死者の出る戦いの保証をすることは国家にとって実際に不可能である。また武力戦争の結果、相手の領土の多くを植民地のように繰り入れることも難しくなった。それは、戦争が破滅的にならないように少しずつ積み重ねてきたいくつかの取り決めによるものでもある。
 ベトナム戦争やアフガンなどで散々学んだ泥沼に陥ることを回避する手段である。中世などでは相手国を皆殺しにして遺恨を絶つということも可能だったかもしれないが、現代社会では少なくとも先進国では倫理的にそれは不可能となっている。一定レベルの経済力を有する国同士であれば、本格的な戦争は仮に勝利したとしてもメリットは少ない。既に多くの国は手放すのに惜しい富を蓄積している。そして、敗戦国から土地と人を収奪したとしても現実的に武力戦争による損失を賄いきれる可能性は低い。賠償金として課すことが落としどころとなるだろうが、金額が天文学的な数字となる時代にその解決方法が現実的といえるかは疑問である。
 一方で、メディアは過去の戦争における人的被害の大きさを語る。それ故に戦争反対は大きなテーゼとなっている。しかし、経済戦争により国が疲弊して間接的に多くの人が死ぬことになったとして、その被害者は戦争被害者とは言えないのか。私はそれも被害者と考えるべきではないかと思うのだ。戦争を小さな枠にはめ込んで考えるこれまでの常識が、却って戦争の真実を歪曲してしまっている可能性はないだろうか。

 既に、現代の戦争はその舞台を武力というフェーズから大きくシフトさせてつつある。それは世界経済が大きくつながったという環境上の変化がるだろう。確かに武力は現在も紛争解決の一つの手法ではあるが、上記のようにメリットが相対的に小さくなり、現状の体制を崩すというデメリットの方がそこから利益を得ている国にとっては多き野である。
 だからこそ今の時代、武力は一定レベルの先進国同士においてはあくまで恫喝のための存在として誇示した方が有効に機能する。先進国が介在しても、もちろん小さな紛争に対しては武力を用いるケースもない訳ではないが、一定の経済力を有する国同士では偶発的なものを除けば、損得勘定が機能して大規模な武力紛争に臨むメリットは薄い。逆に世界経済と切り離された存在からすれば、テロという形のゲリラ戦は有効なものとなる。

 なお、このこと大きな武力戦争が決して生じないということを意味しているのではない。お互いの理性が働く間については、武力戦争はデメリットの方が大きいことを基本的に為政者は知っていることによる抑制力が機能しているという意味に過ぎない。
 モノを動かす時の抵抗として、静止摩擦力と動摩擦力があるというのは小学校あたりの理科で学ぶかもしれないが、基本的に静止摩擦力の方が大きくなる。メリットデメリットを理性が判断して、容易に大規模な武力戦争に突入しないというのは、この静止摩擦力に似ている。それにより一定レベルまで抑制されるものの、モノが動かないということを保証しているのではない。一旦タガが外れると考えたくない事態が発生する危険性は常に存在している。

 だが少なくとも、現在は経済的優位性を保つための駆け引きが、戦争とは言わなくとも一定の経済規模を有する国同士の実質的な争いになっている。そこでは情報を奪い合い混乱させるサイバー攻撃があり、協定による囲い込みがあり、あるいは関税や貿易的な圧力による鞘当て、さらには裁判という有効な方法もある。大部分は法律と条約あるいは協定によるルールの主導権争いだ。戦争そのものではないだろうが、時には様々な緊張感を高める現象が起こっている。これらを戦争と呼ぶべき状態に移行するターニングポイントがどこにあるかを、しっかりと見極める必要があるだろう。
 もちろん、アメリカは基軸通貨ドルを用いた大きな攻撃力を有している。ドルの価値や信用維持こそがアメリカの最大限の強さである。アメリカの武力は、アメリカ人らしい独りよがりの正義感により動く面も少しはあるが、その大部分はドルの価値を維持するために存在している。ドルは武器なのだ。その武器を有効にするために武力による睨みを利かせ、そしてルール作りを主導することで実効足らしめている。

 アメリカのドルに対抗した最初がユーロであるが、ユーロはドルに取って代わることではなく、アメリカとは異なる経済圏を確立することを目的とし、それによりドルとの全面的な対立を避けてきた。湾岸戦争など通じてそうさせられてきた。次に台頭してきたのが中国の元である。現状、ドルに対する全面的な抵抗を示しているわけではないが、ユーロの場合と違って通貨圏を複数の国家に亘る形で作っているわけではなく、ドルとの小さな小競り合いは生じている。だが、中国自体アメリカに抵抗できるほどの経済的な力を蓄えているわけではないため、本格的な通貨戦争を仕掛けているわけではない。あくまでドルの隙間を広げているような状態といっても良いだろう。
 そして日本はバブルの一時期ドル真の強さを軽視し、そして崩壊により経済的というよりは心理的に大きなトラウマを抱えることとなった。

 但し、アメリカが万全である訳ではない。むしろドル価値維持のためにドンドンとドルを刷り続けなければならないようになっているというのは、いつかはドルの価値が大きく毀損するという時限爆弾を抱えているようなものだ。現状を永遠とすることは決して叶わない。
 経済戦争に対抗するために協調の姿勢を見せるものが、多国間の様々な取り決めである。TPP などもその一つに挙げられるだろうが、同時にそれはブロック経済(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%B5%8C%E6%B8%88)と呼ぶより広範囲の争いを呼び起こすことにもなる。

 さて、このように現状を俯瞰する時、次に発生する戦争は基本的にルールの押し付け合いからスタートする。そこにはルール破りも含まれるが、南シナ海を巡るそれは既に多くの人が知っているだろう。また、韓国と日本の間でも「歴史戦」と呼ばれる心理戦が既に繰り広げられている。もちろん、実質的な戦闘行為に広がることが無い様に、日本やアメリカの方が抑制的に接しているのは触れるまでもない。そして、中国や韓国は暴発の危険性をカードに揺さぶりをかける。
 しかし、最後にこれらは多数派の取り込み工作として勢力争いとなって進められている。現状においては中国や韓国の方が不利になっていると見て良い。問題は、武力戦争が良いというつもりは全くないが、その決着がつくという最終的な場面が見えない状態が続くことではないだろうか。
 よく、win-winなどという言葉が用いられるが、新たな時代の戦争には決着というものが現れにくい。経済的な争いなどは特にそうであろう。私たちが最も考えなければならない問題は、いつまでも決着しないことに対する苛立ちが武力を招き込む最大の要因であることかもしれない。ただ、それを利用したチキンゲームを仕掛けてくる相手には、武力ではない力の行使も必要となっていく。そのためのカードをどれだけ多彩にかつ多く持ち得、その使い方を気©hンと理解することが抑止力の一つとして機能するのでないだろうか。だが、強い側が単純に譲歩すればよいというものではないのは間違いない。

推論力

 才能の有無は、人々の話題として上ることもあるだろう。天賦の才(http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E8%B3%A6%E3%81%AE%E6%89%8D)を羨むこともあるだろうし、努力する才能を称賛する声もある。本当の天才は両者を兼ね備えてこそだと私は思うが、秀才レベルであればいずれかの力を持っていれば到達できるであろう。そして、時には努力の積み重ねが天才を凌駕するほどに達するジャンルもあるかもしれない。もちろん、最後には運がそこに加わって結果を左右する。どれほど才能がある人であっても、自らが最も活きる分野と出会わなければ才能を埋もれさせてしまうこともあるのだから。
 しかし、一方で大部分の人は努力によりある程度のレベルまでは概ね達することができるものである。中には、どんなに努力してもすぐれたレベルに達することができなかったと主張する人もいるかもしれないが、自己認識とは差が出るかもしれないものの客観的には努力不足と言うよりも、努力の方向性や内容を間違っていたというケースが多いのではないだろうか。努力とは、何でも単純に頑張りさえすれば良いのではなく、正しい方向性を進んでいるかどうか、それを早く見付けられるかが問題とされるのだから。過程ではなく結果で評価する。それ故に、指導者の資質が大変重要となる。

 さて、上記のような「才能」を取り上げればかなり突き抜けた少数者のことを言っているイメージがあるが、日常生活において能力が高いと言うレベルなら私たちの周りにも多くいる。「この人は(仕事が、勉強が)大変良くできる」と評価される人は、職場や学校にもクラスや課に数名見付けられたりするものである。
 足が速いとか、記憶力が優れているとか、ピンポイントに固有の才能が強く表れるケースもあるだろうが、仕事ができるとか勉強ができるといった総合面では少々異なる。時には努力で才能不足を賄ったり、自分に合った取り組み方や方法を見いだすことで効率的に仕事を進めたりと、効率的かつスムーズにこなせる人が高い評価を受けることになる。「スマート」と呼ぶのがもっとも適切だろうが、能力が高いと評価することも可能だ。
 一般的に頭が良いとされる人たちは、どこか要領がよい。他の人たちが長くかかってしまう努力を短縮する方法を自分なりに見付けていることが多い。その具体的方法については自分の強い面を活かそうとするため千差万別であり、誰かの方法を真似たからと言って必ず結果が出るとは限らない。だが、効率的な勉強術を手に入れるというのは成績に大きく影響を与える。
 実際には全てを1から自己流で創り出すのは大変であり、誰かが用いている手法のうち自分に合いそうなものを選択し、それをさらにアレンジすることを行っている。真似るだけでは完全ではなく、真似ることすらできないのはかなりハードな道を選択することになる。だが、そういうノウハウは非常に限定されたモノしか学校では学べない。自分なりの構築方法を持つことが重要だ。

 ただ、今回問題としたいのは上述の様な「どのように真似る」と言った具体的方法論の話ではなく、なぜ効率的な手法を見いだせるのかという考え方や認識に関してである。私はその力を「推論力」と呼んでみたいと思う。大部分の能力が高いとされる人たちは、高い推論力を有していると考えるべきではないだろうか。
 ここで私が持ち出した「推論力」は、特段名探偵のような謎解きをできるような飛び抜けた力を考えている訳ではない。もちろんそれも優れた推論力であろうが、私が考えるポイントは3つである。

(1)情報が不十分な条件下で、問題をどれだけ正しく理解する能力(基本的推論力)
(2)与えられた情報の量で推論して良いかを判断できる能力(推論適用判断力)
(3)常に複数の可能性を同時に保持する能力(推論柔軟力)

 試験勉強でもなければ、社会において判断に必要な全ての関連要因が目の前に揃っているということは稀である。また、勉強の場合であっても推論力を働かせることで、未修得の問題に対応できる可能性が非常に高まる。
 単純な「推論(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E8%AB%96)」の概念よりは少し幅広く実践的なものであり、演繹的であるか帰納的であるか統計的であるかはここでは問うてはいない。

 世の中を見渡しても、社会においては単純に決断すれば(答えを出せば)良いというものではない。予測値を上げるために、様々な事前調査を行うのは当然だが、それでも調査結果が確実な成功を保証しないことは誰もが知っているであろう。決断の大部分は、結果を見通せるとは限らない状況において行われている。
 少ない情報下で以下に妥当な決断を行うか。まだ、私はそのための理論を知らない。多くの人たちも、自分なりの経験の中からこうした力を磨き上げている。そして、少ない情報下において素早く決断できたものは、成功への近道を歩むことができる。
 だが、それは猪突猛進、イケイケであることを推奨するものではない。チャレンジするかしないかのギリギリの決断を行うための限界を見極めるということも含まれている。それが上に掲げた2番目の能力である。推論力は単純に想像を巡らせて何らかの決断を下すだけではない。むしろ、「決断すべきかせぬべきか」を見極める能力を有しているとも言えるのだ。

 そして、最後が誤った決断をしたときのリカバリー力である。推論力が高い人であっても、誤った決断を下すことは当然のようにある。その時に、如何に多くの代替案を有しており、また即座に変更(あるいは撤退)するという決断をする力。ここまでを含めて、私はこれを「推論力」と呼びたいのである。
 そしてこの能力の優れた人の方が、単純な頭の良い人よりも高く評価されると思っている。私は学歴にも一定のフィルタリング機能はあると思うが、それ以上に「推論力」の高い人の方が社会的には成功するのだろうと思う。学歴上の頭の良さは、記憶力や勉強に特化した答えが必ず存在する問題を解く能力に優れた人で評価される。しかし、現実社会ではそれのみでは不十分である。
 これに加えて、コミュニケーション能力などその他の力も求められるのは確かだが、判断のための情報が不十分だからと言っていつまでも足踏みする人や、逆に思いつきで即座に行動してしまう人も、それぞれ慎重な人、行動的な人と評価されるケースも多い。
 だが、最終的に良い仕事をできる人はそのバランスが非常に優れているのではないだろうか。

 まだ、この「推論力」についてはもっと具体例を考えていきたいとは思うが、今回はこんな能力の呼称があっても良いのではないかと書いてみた。皆さん、いかがだろうか。