Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

社会規範における理想と現実

 「ポリティカルコレクトネス(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9)」、トランプ旋風と同時に大きな話題となった言葉である。倫理的には正しいことではあるが、同時に理想主義すぎる面が社会を抑圧的にしていると感じさせたとする問題と言えよう。個人的なイメージとしては、この構図は宗教の教義に従順であることに似ていると思う。正しい理想(教義)は、仮に現実と矛盾するとしても優先しなければならないというスタイルである。
 そもそも、私はここで何度も書いているように「正しさ」という概念は相対的なものだと考えており、正しさに絶対性を与えるという行為には否定的である。それについては、法律も同様に現実と矛盾していることがあるだろう。だが、矛盾が一定以上になれば法律は改正され得る。要するに、法律により社会が享受する利益と不利益を天秤にかけ、利益が勝るように調整していく。そういう機能を有しているのが民主主義である。ただし、法治主義の原則により悪法であっても法律である限りにおいてそれは尊重されなければならない。これは、社会安定上必要とされるからであろう。

 問題は法律による明確な規制ではなく、曖昧な雰囲気により社会を縛りつけていく風潮の是非ではないか。それはある時には慣習と呼ばれ、ある時には倫理と呼称される。それ以外にも、韓国における親日を罰するという風潮もあるだろうし、なんとなく合意した(あるいは合意させられた)社会生活における法以外の規範を示している。
 この何となくについては、一定の意味がある場合もあろうし無い場合も存在する。規範では無く流行(ブーム)であれば短期間の隆盛後にいずれ廃れていくが、規範と認識された場合にはそれが時間と共に強化されていく方向性を持つ。一部のメディアなどは、これまでもブームを煽りそれを固定化すべく動いていたフシも感じるが、社会の認識が一定以上変化すれば規範には至らなくとも暗黙に支配している雰囲気が、一気にひっくり返ることもあるだろう。
 慰安婦問題や南京大虐殺なども、アンタッチャブルな規範に昇格させようと様々な動きが見られるし、同様のことは若干レベルが違うが反原発問題や沖縄基地問題でも見て取れる。

 ポリティカルコレクトネスも、いつの間にかアンタッチャブルな存在になっていたものではないかと思うが、その頸木はここに来て徐々に外され始めた。近年の典型的事例の一つには、欧州の難民受け入れ問題に対する言動があるだろう。トランプ氏が話題となる以前から徐々に進行していた。あるいは、イギリスのブレグジット(Brexit)も似たところがある。フィリピン大統領のドゥテルテ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%86)氏はトランプ大統領に輪をかけた様な発言を繰り返しているし、建前上の正しさは理解できものの我慢することができないという動きは、基本的に世界中に広がっている。
 今後も、EU離脱を掲げる動きは今以上に広がっていくだろうし、混乱の時代だからこそ本音での話が幅を利かせ始める可能性は高い。安定の時代には建前による統治や国際交渉が大きな力を持ち、変化の激しい時代には本音の交渉力が力を有する。ある意味において、今起こりつつあるポリティカルコレクトネスに対する反発という変化は当然のことかもしれない。

 さて、建前を規範と認識してしまうと大きな社会変化に追随できなくなってしまう。規範そのものが守るべき絶対的なルールと化してしまうからである。最も重要なことは、手間がかかるし面倒ではあるが、ルールについても時に応じて(問題点が持ち上がった時には)その妥当性を検証することであろう。この時、検証のための判断基準が規範におけるルールに準拠してはならないのはわざわざ言うまでもない。規範に従えば、そもそも再検証なんて何の役にも立たない無意味になものでしかない。
 しかし、こうしたバランスを取ることが実際には容易にできないのが社会を見ていればよくわかる。曖昧な雰囲気を規範のレベルに押し上げることを目的として、主義主張が用いられている事例が多いからである。主義主張には二つのタイプがあると私は思う。一つには、社会あるいは集団の雰囲気や慣習が実態とかい離している場合に、現実に引き戻すために用いるもの。そしてもう一つは自分たちの理想に対して人々の心を惹き付ける(逆に異なる主義主張を持つ集団には対立・反発する)ものである。
 宗教でも特に原理主義についてはまさに後者であるだろうし、左派系の主張も私には同じように聞こえる。凄く大雑把な話ではあるが、前者は現実を規範とし後者は理想を規範とする。本当に追い求めるべき先はその中間のどこかにあるのだろうが、主義主張が抱く強さが中間と言う立場をなかなか容認しない。

 私は社会の規範というものは長い時間をかけて確認しながら醸成するものであり、一方で同時に時代の変化に応じて少しずつ変わっていかなければならないものでもある。だから、規範と認識されるようなものであっても、時に応じて検証されなければならないと考えていることは先ほども書いた。ただ、唯一言えることは理想の規範は多くの人がその存在を必要とするものであり、多くの人に強制・あるいは押しつけるようなものは、法という形で明文化されるべきなのだろうと思うのだ。
 倫理規範というものも、これまた社会を円滑に回すための一つの有効な手段として存在している。それにより社会に不都合が生じる場合には、適宜再調整されなければならない。もちろん倫理規範として認知されてきた経緯には最大限の理解と敬意を表することは当然である。だが、同時に理想を追い求めすぎることは、現実に想定以上の負荷をかける。そもそも論として、倫理はそれ自身が目的ではなくあくまで手段なのだから。