Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

推論力

 才能の有無は、人々の話題として上ることもあるだろう。天賦の才(http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E8%B3%A6%E3%81%AE%E6%89%8D)を羨むこともあるだろうし、努力する才能を称賛する声もある。本当の天才は両者を兼ね備えてこそだと私は思うが、秀才レベルであればいずれかの力を持っていれば到達できるであろう。そして、時には努力の積み重ねが天才を凌駕するほどに達するジャンルもあるかもしれない。もちろん、最後には運がそこに加わって結果を左右する。どれほど才能がある人であっても、自らが最も活きる分野と出会わなければ才能を埋もれさせてしまうこともあるのだから。
 しかし、一方で大部分の人は努力によりある程度のレベルまでは概ね達することができるものである。中には、どんなに努力してもすぐれたレベルに達することができなかったと主張する人もいるかもしれないが、自己認識とは差が出るかもしれないものの客観的には努力不足と言うよりも、努力の方向性や内容を間違っていたというケースが多いのではないだろうか。努力とは、何でも単純に頑張りさえすれば良いのではなく、正しい方向性を進んでいるかどうか、それを早く見付けられるかが問題とされるのだから。過程ではなく結果で評価する。それ故に、指導者の資質が大変重要となる。

 さて、上記のような「才能」を取り上げればかなり突き抜けた少数者のことを言っているイメージがあるが、日常生活において能力が高いと言うレベルなら私たちの周りにも多くいる。「この人は(仕事が、勉強が)大変良くできる」と評価される人は、職場や学校にもクラスや課に数名見付けられたりするものである。
 足が速いとか、記憶力が優れているとか、ピンポイントに固有の才能が強く表れるケースもあるだろうが、仕事ができるとか勉強ができるといった総合面では少々異なる。時には努力で才能不足を賄ったり、自分に合った取り組み方や方法を見いだすことで効率的に仕事を進めたりと、効率的かつスムーズにこなせる人が高い評価を受けることになる。「スマート」と呼ぶのがもっとも適切だろうが、能力が高いと評価することも可能だ。
 一般的に頭が良いとされる人たちは、どこか要領がよい。他の人たちが長くかかってしまう努力を短縮する方法を自分なりに見付けていることが多い。その具体的方法については自分の強い面を活かそうとするため千差万別であり、誰かの方法を真似たからと言って必ず結果が出るとは限らない。だが、効率的な勉強術を手に入れるというのは成績に大きく影響を与える。
 実際には全てを1から自己流で創り出すのは大変であり、誰かが用いている手法のうち自分に合いそうなものを選択し、それをさらにアレンジすることを行っている。真似るだけでは完全ではなく、真似ることすらできないのはかなりハードな道を選択することになる。だが、そういうノウハウは非常に限定されたモノしか学校では学べない。自分なりの構築方法を持つことが重要だ。

 ただ、今回問題としたいのは上述の様な「どのように真似る」と言った具体的方法論の話ではなく、なぜ効率的な手法を見いだせるのかという考え方や認識に関してである。私はその力を「推論力」と呼んでみたいと思う。大部分の能力が高いとされる人たちは、高い推論力を有していると考えるべきではないだろうか。
 ここで私が持ち出した「推論力」は、特段名探偵のような謎解きをできるような飛び抜けた力を考えている訳ではない。もちろんそれも優れた推論力であろうが、私が考えるポイントは3つである。

(1)情報が不十分な条件下で、問題をどれだけ正しく理解する能力(基本的推論力)
(2)与えられた情報の量で推論して良いかを判断できる能力(推論適用判断力)
(3)常に複数の可能性を同時に保持する能力(推論柔軟力)

 試験勉強でもなければ、社会において判断に必要な全ての関連要因が目の前に揃っているということは稀である。また、勉強の場合であっても推論力を働かせることで、未修得の問題に対応できる可能性が非常に高まる。
 単純な「推論(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E8%AB%96)」の概念よりは少し幅広く実践的なものであり、演繹的であるか帰納的であるか統計的であるかはここでは問うてはいない。

 世の中を見渡しても、社会においては単純に決断すれば(答えを出せば)良いというものではない。予測値を上げるために、様々な事前調査を行うのは当然だが、それでも調査結果が確実な成功を保証しないことは誰もが知っているであろう。決断の大部分は、結果を見通せるとは限らない状況において行われている。
 少ない情報下で以下に妥当な決断を行うか。まだ、私はそのための理論を知らない。多くの人たちも、自分なりの経験の中からこうした力を磨き上げている。そして、少ない情報下において素早く決断できたものは、成功への近道を歩むことができる。
 だが、それは猪突猛進、イケイケであることを推奨するものではない。チャレンジするかしないかのギリギリの決断を行うための限界を見極めるということも含まれている。それが上に掲げた2番目の能力である。推論力は単純に想像を巡らせて何らかの決断を下すだけではない。むしろ、「決断すべきかせぬべきか」を見極める能力を有しているとも言えるのだ。

 そして、最後が誤った決断をしたときのリカバリー力である。推論力が高い人であっても、誤った決断を下すことは当然のようにある。その時に、如何に多くの代替案を有しており、また即座に変更(あるいは撤退)するという決断をする力。ここまでを含めて、私はこれを「推論力」と呼びたいのである。
 そしてこの能力の優れた人の方が、単純な頭の良い人よりも高く評価されると思っている。私は学歴にも一定のフィルタリング機能はあると思うが、それ以上に「推論力」の高い人の方が社会的には成功するのだろうと思う。学歴上の頭の良さは、記憶力や勉強に特化した答えが必ず存在する問題を解く能力に優れた人で評価される。しかし、現実社会ではそれのみでは不十分である。
 これに加えて、コミュニケーション能力などその他の力も求められるのは確かだが、判断のための情報が不十分だからと言っていつまでも足踏みする人や、逆に思いつきで即座に行動してしまう人も、それぞれ慎重な人、行動的な人と評価されるケースも多い。
 だが、最終的に良い仕事をできる人はそのバランスが非常に優れているのではないだろうか。

 まだ、この「推論力」についてはもっと具体例を考えていきたいとは思うが、今回はこんな能力の呼称があっても良いのではないかと書いてみた。皆さん、いかがだろうか。