Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

柔道における体罰は悪いのか?

非難を受けるのは承知の上で、それでも敢えて書いてみたいと思う。
私は以前のエントリで、自分のスタンスは学校の教育において体罰そのものは否定しないと書いてきた。ただ体罰を積極的に肯定するつもりもなく、その有効性を上手く使えるものが適切なタイミングで使えばという前提があると思っている。そのことに対する教師の認識が曖昧でかつ甘いからこそ、桜ノ宮高校での問題がクローズアップされた。
ところが、報道ではその暴力性の一面のみが臭い物に蓋のような形で、体罰を止めれば全て上手く行くような雰囲気の言論がまかり通る。それは、「いじめは悪いから無くしましょう」と言った建前論としての正義であって、人間である以上は「いじめ」も「体罰」も根絶は不可能だと思うのだ。
むしろ、議論すべきは無くならないという前提に立った上での適切なコントロール方法を謳うべきだと考えている。その議論無しの非難をいくらしても何も解決することはない。確かに、昔ながらの精神論による指導を今も続けることには、私も疑問を感じる面が少なからずある。体罰もその流れの中に存在し、それを無くすことで教育が上手く行けば理想的だとは思うのだが、同時に体罰に変わる有効な歯止めを別に用意しなければならない。それ無しの議論は、教師(指導者)に対する精神論の押しつけであって体罰と同じ構図ではないだろうか。

さて、柔道女子オリンピック選手達からの告発がメディアを賑わせている。まず建前論から言えば、おそらく精神的にも肉体的にも酷い行為があったのであろうと想像する。だから、選手達の訴えがおかしなものだとは思わない。柔道界はその体質を変えなければならない段階に来ていると思っても良い。
ただ、この論点を先日の学校における体罰と同じで扱って良いかと言えば、私は異なると思う。学校における教育と、世界のトップと争うような競技者におけるそれとは種類が違うと思うのだ。もちろん、体罰や暴言無しにより素晴らしい選手を育て上げられることが理想であることには間違いがないのだが、世界のトップを争うという場合において指導でなりふりを構っていられるかと言えばそんなことはあるまい。
そして、それを目指す選手達もトップに到達するために全てを捨てて打ち込む訳だ。ここにおいて指導者と選手の間には共通の明確な目標が存在する。選手の全てがそう思うのかはわからないが、仮に体罰を受ければトップを必ず取れるのであればそれに躊躇する選手は少ないと思うのだ。
トップアスリートの世界では、教育というレベルとは明らかに違う認識だと考える。だから、今回の問題はタイミング良く体罰が内容となっているためそこがクローズアップされているが、私は指導者変更の主張だと認識した。理由の一部に暴言や体罰があるだろうが、それはむしろ副次的な要素であってそれを用いても選手達の成績が上がらない指導者に対する反乱だと思う。おそらく、結果が伴っていたならばこんな結末にはなっていなかったであろう。要するに、指導が下手くそだと言われているに過ぎない。だとすれば、現状における柔道協会の姿勢は選手が納得できるものでは無いかもしれない(監督が反省して続投なら)。まあ、事態は流動的であろうから今後どうなるかはまだわからないのだが。

体罰の暴力性は、基本的に社会では忌避されるものであるのは間違いない。しかし、そもそもスポーツは暴力(争い)を競技に変えて行っているものである。闘争本能を焚きつけなければ勝てる勝負にも勝てなくなるのは当然のことである。だから、学校教育と同レベルの建前論を用いてそれを判断するようなことがあってはならないと思うのだ。